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 ここは古河佑巳の妄想を文などにして表したものを展示してある場所です。
ファンタジー・和ものを主に扱った物語似非小説を不定期に更新してます。
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「アロン」(ルナ様と合作)

1 2 3 4 5 6()new …

「夢処(ムカ)」(下書き中)



「Homeless day」(下書き中)

・story1
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・story2
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「鬼ヶ島の住人」(下書き中)

  

「鳥屋」

1


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掲載予定

「リム」
「「幻想交響曲」  etc...


誤字、脱字の修正など、若干準備中です。
              
                             koga.
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第一章


 朝靄の中、鐘が乾いた音を奏でた。耳を抜けるその音は、まるで無の意を含んだようだった。その鐘を聞いた人々は寝床から身を起こし、身仕度を始める。まだ陽が昇らぬ薄暗い朝、人は働きに出掛ける。鉛のような体を寝床から引き剥がして、うめき声にも似たため息をつきながら家をでた。子供は立って歩行ができれば、大人は死ぬまで働かされた。

布一枚の服を身につけ、体や服を洗うことを許されず、食べるものは虫と草。たまに鼠の御馳走がある。食べられるものは何でも食べた。

 彼らは奴隷。死んだ地に生きる奴隷。誰のために働いているのかさえ解らない。鉱山で、川で、海で、他にも様々な場所で働いた。彼らは一文無しで生きている。子供は死に、大人は我先にと死んで逝った。そして、皆の死に顔は笑んでいた。

 やっとこの時が来たのか、と幸福に顔が綻んだのだろう。その死者が眠るのは土の中。人の腹の中ではない。何でも食べる彼らだが、そのところだけ人間らしい、道徳とも似つかない良心が残っていた。やがて死者が土の中で腐り、その上に草が生え、生きた人がそれを食べる。人間にして、自然界の掟に従い、生きる。


 調度今も死に導かれる人がいる。彼はとても嬉しそうだった。何も考えずとも自然と彼の口元は歪んだ。彼には妻も一人息子もいた。だが、自分が死ぬ嬉しさに我慢ができなかったのだろう。そんな父親の傍らで、妻と息子は羨ましがって泣いている。これから彼の仕事が自分の元に来る。恨みにも似たその眼差しはそのままだった。

 案の定、すぐ死んだ。彼は安らかな微笑みを浮かべ、最後にふーっとため息のような息を吐いて動かなくなった。暫しの静寂があったが、次の鐘の音で妻と息子は彼の元から離れていった。彼らに感情などほとんど無かった。あるのは憎しみと悲しみの憎悪だけ。

 妻子は覚束ない足取りで家から出た。その家の周りには何件か木製の家々が立ち並んでいる。この土地には剥げ頭のようにしか植物の姿は見られなかった。しかし、何年か前まであったのであろう、木製の家々だけは古ぼけたまま静かに佇んでいた。

 空は茄色だった。

 家から東の方に少し進むと、妻子は立ち止まった。彼らの目の前にはぽっかりと大きく開かれた穴があった。彼らにとっては何を目的に掘っているのか解らない洞窟である。妻子は重い足取りで洞窟の中へ入っていった。


 土の匂いが芳しい。地上の土は乾燥しているが、洞窟の中の土は十分湿気ている。足を一歩出すとグニャリとした感覚が足の下に広がる。この洞窟では妻子を含め、五人の奴隷が洞窟を掘っていた。妻子はすぐに行き止まりに跪き、湿気た土の中に手を突っ込んでいった。

 暫くして、子は洞窟の壁を掘りながら、その湿気た土をふと手に取った。最初はその匂いを舐めるように嗅いでいたが、気付いた時には口へその手を運んでいた。噛んでは砂が音を立てるので、彼は無理やり喉に流し込んだ。その意外な味に彼はもう一度、土を口に運ぶ。だんだん味が明確になってきた。

 甘いような苦いような味、その土の香が鼻を抜ける。なんて美味しいのだろう、と彼はその時思った。彼はここ一週間飲まず食わずで働き、空腹の絶頂を当に越えていた。美味しい、美味しい、と何度も呟きながら彼は土を口にほうばった。泣きながら、口にほうばった。

 それが俺。

 俺はその時まだ八つだった。その体は細く、皮が一枚骨にへばりついているだけのようなもの。目元には隈ができ、とても子供の顔には見えなかった。

 俺はまた土を口に運んだ。暫くそうしていたが、やはり体が拒否反応を引き起こして嘔吐した。あっという間に取り込んだ土が逃げ出し、口の中がざらつく。慌てて口を押さえてみたものの、掌の隙間から土が溢れ、嗚咽が漏れた。

 その声を聞きつけて、母親が駆け寄ってくる。ここで私語は厳禁だったので、彼女は俺の両肩に手を添えて軽く揺さ振るだけだった。そして、俺は口を手で覆いながら、首をひたすら横に振った。母親は俺の心配をしていたのだろう(先に弱って死ぬことを)。しかし彼女は暫くしてから、もとの作業に戻り、穴を掘り始めた。

 俺の目から一筋の涙が流れた。

 それから数日間、俺は土を口に運んでは吐き続けた。それである程度の空腹は凌げる。錯覚だけでもよかった。ただ何か別のことをしていたかった。

 ある日同じように土を口に運んでは吐いていると、吐いた土の中に輝く物体を見つけた。俺は土を掘り起こすフリをしながら、その輝くものを手に取った。それは銀に輝き、微かな光を受けて、明度の高い白を帯びていた。大きさは俺の親指ほどで、まったく重さを感じられない。形はまるでカギ爪の付いた鷲の足であるようだ。子供心を擽られ、俺は賺さずそれを口の中に隠した。

 その夜のことを俺は、はっきりと覚えている。

 仕事で疲れ、帰るのは窓のない木製の家だった。その夜はひどく風が吹き荒れていた。風は冷たく、人を震わせるほどだ。

 そんな中、人々が寝静まる頃、俺は隠しておいたモノを眺めていた。なんて綺麗なんだろう、と思いながら引っ繰り返したり、よく観察してみる。それには何かそそられるものがあった。光の当たる角度によって輝き方が違うところなどは言うまでもなく、自分を億万長者に仕立てあげるほどだった。

 ひゅうっ、と風が通り過ぎて俺はたまらず身を縮めた。その途端、風が止んだ。

 そりゃあ、おかしな天候だった。

 俺は身を起こして、寒さに震えながら家を出た。外は闇に包まれ、どんよりとした雰囲気に包まれていた。目が慣れていないせいもあるのか、遠くの方で人影が見えた。こんな遅くに何をしているんだろう、と俺はその人影を確認するために目を凝らした。

 すると、遠くの人影と目が合った(気がした)。

 彼らには目などない。あるのはポッカリ空いた二つの穴だけ。あの時の俺より奴らは痩せていたな。

 俺はあいつと目が合った。だんだん暗闇に目が慣れ、人影ははっきりした人になった。その者は少しずつ俺の方に近寄ってくる。ゆっくりと足を進ませてくるが、何か違和感を覚えた。そして、

 俺はその時あらぬモノを見た。俺が人だと思っていたのは、以前人だったモノ。俺よりそいつが痩せていたのも当然である。

 なんたって肉も皮もねぇ、骨っ子だったからな。

 姿は骸骨。名はスケルトン。俺たちはそう呼んでいる。彼らは俺たちが主人に服従しているか確かめる役割を果たす、つまり仕事場の管理者だ。

 彼らは余ほどのことがない限り奴隷の前に姿を現すことはない。と、いうことは何かあったのだ。俺はその夜に初めてスケルトンを見た。とにかく、どこを取っても気持ちが悪い。不気味な格好をし、かつ異臭を放ちながら、こちらに近づいてくる。

 俺はその姿を見た途端、背筋が凍ったように動かなくなり、手に持っていたモノをきつく握り締めた。

 スケルトンはどんどん俺との距離を縮めていく。自然と息が荒くなるのを感じた。すると、もう一体。もう二体とそのスケルトンに続いて、別のスケルトン達が姿を現した。人型だけではない。中には牛や馬、犬、鳥などのスケルトンが俺の視界に入ってくる。

 恐怖に顔が引きつり、声の出し方は忘れさられてしまったようだった。動かなければ、そう思うのだが、彼らの空洞な目を見ているだけで、体はいうことを聞かなくなった。

 辺りは寒いはずなのに、ろくに水分など取っていたわけではないのに額から滝のように汗が流れた。

 彼らの動きは鈍いが、殺気にも似た威圧感は十分にあった。俺はひたすら銀色に光るモノをきつく握り締めた。このモノがアミュレットか何かで、スケルトンのような危険な奴から自身を守ってくれる、と意識が混乱する中、切に願った。

 すると、先頭にいたスケルトンが俺の心に呼び掛けてきた。微かに聞こえる。声が聞こえてくる。

彼は銀のモノを渡せと言った。

 心に語りかけられた瞬間、胸を鋭利なもので掻き毟りたいような感覚に襲われた。俺はもう奴の言葉を二度と聞かないように握る拳を更に固めて気を張った。

「いやだ」

 そう俺が言った途端、鐘がなった。

 乾いた鐘の音は闇に響いた。鳴り終わりに低音の余韻を残しながら、人々の耳に語りかけた。静寂が訪れて、また鐘が鳴る。奴隷たちは仕事の時間だと勘違いをして目覚め、身を震わせながら鉛のような体を起こした。俺の母親も眠りから覚め、足元も覚束ないまま家から出た。みな家から出た。

 すると鐘がもう一度。俺の足元に響くのを感じた。

 スケルトンは擦れた遠吠えで叫ぶ。その声を聞いた無数の骨は顎をガチガチと鳴らしはじめた。もう彼らは俺の方に目を向けることはなかった。

 彼らは奴隷達に襲い掛かるのだった。スケルトンは自分の手足を折って骨の先を刃物がわりにし、奴隷達に斬り付けた。

 あるものは心臓を一突きにし、またあるものは頭を狙った。

 生まれながら体力が備わっていない奴隷たちはどんどんいなくなり、辺りが鉄臭くなった。人々の悲痛な叫びは、もはやこの世のものではない。

 俺のすぐ傍では母親がこと切れていた。彼女の首には肉が殆ど見られなかった。おびただしい血に、露出した白い骨が印象的だった。それから下半身は途切れ途切れに跳ね上がる。おそらくスケルトンに噛みちぎられたのであろう。悲痛な表情をたたえて、死んでいた。しかし、俺は無情だった。

 なぜ?

 俺は疑問を抱いていた。そんなことを考えている間にもどんどん殺しがつづいた。俺の目の前を生と死、死と死が駆け回っている。姿が見えないのか、俺は誰からも死を受けず仁王立ちで辺りを見回しているだけだった。人々は叫び、崩れていく。

 なぜ笑わない。笑うところだろう。

 俺はその時を楽しみにしていたのに。俺の母親と同じような顔をして死んでいく奴隷。目を見開き、歯を剥き出したまま、叫び、血塗れになって倒れていく。だが、その時の俺にはわからなかった。死の意味が理解できなかった。死は嬉しく、幸せなものであるはず、と俺はその場に立ち尽くした。無情に涙が溢れる。

「誰か助けて」

第二章

 目が開かれた。青いどこまでも澄んだ二つの目。私は彼を探すのに必死だった。

 それもそのはず。彼なしではただのガラクタだった。

 ふらつく体を必死で支えながら飛び、風を諸共せずに突っ切った。空には濃い雲が覆いかぶさり、なかなか外に出られない。雲を切り、素早く飛んでやっとのことで視界が開けた。その辺りは漆黒の闇だったが、私の目には昼間のように映った。

 下界では一方的な虐殺が行なわれていた。空にいても匂ってくる血の生臭さは私にいくらか不安を与えた。これはまずい、と私は翼を畳んで急降下した。冷たい風がすぐ横を素早く通り過ぎる。

 地上で蠢くスケルトンはもう全ての人を殺してしまったのだろうか。

 私は翼を広げて降り立った。少し体がよろめいたがまだ大丈夫だ。

 スケルトンは人を殺すのに必死で私には興味がないらしい。少し腹が立った私は彼らに咆哮を浴びせた。始めは低く唸るように、そして大地を裂くような旋律で、最後には口から煙をフッと吹いてやる。さすがにスケルトンも驚いてこちらに目を向けた。彼らは驚きの眼差しを向け、二歩三歩と後退りした。

 私は逃げようとする彼らを追おうと、また空へ飛び上がった。金切り声が一勢に響き渡る。私は大きく深呼吸をした。そして、有りっ丈の空気を肺へ運び、勢い良く吹き出した。忽ち闇は夕日に包まれた。家々は全焼。スケルトンや死人は一瞬にして灰になった。うまくやった。息のある者以外は全て焼き尽くした(と思う)。

 私は炎がまだ燃え上がる地に降り立った。火の粉が舞い、地は幻想的な雰囲気になっている。異様な匂いが立ちこめる中、私は彼を探した。足を引きずりながら、あちらこちら探してみるが、いないようだ。

 いるのは少年だけ。少年は無表情なまま泣いていた。もしやこの少年が、と私は目を疑った。

〔リトヴィノフ〕

 そう呼び掛けると、彼は私を見上げた。彼にはもともと生きる希望など無かったのだろうか。

〔悲しいの?〕

 私が尋ねると彼は首を横に振り、

「わからないんだ」

 と、擦れ声で言った。そして、彼は手に持っていた私の足を差し出した。

〔リトヴィノフ〕

 私は彼からそれを貰うと、ただのガラクタになった。私と共に生きる者が自分の体に触れていないかぎり、元の姿には戻れないのだった。

 すると、まだ燻る炎の中に人影が現れた。黒づくめの背の高い男が彼の元に近づいてきた。

「大丈夫か?元気そうだが…」

 男は格好のわりに優しい声で俺に語りかけた。見ると、四十半ばぐらいのアジア系の男だった。黒いロングコートを着て、手袋をしている。その手袋はボロボロですべての指先の爪が見られた。黒髪は伸ばし放題で、乱れ、不精髭を顎に生やし、濃い茶色の目をしていた。

「…誰…?」

 俺は涙を拭いた。不思議と恐れはなかった。

「私は…、そうだなぁ。お前の新しい父親だ」

 彼はそう言って、俺の足元に倒れているドラゴンの置物を拾い上げた。

「父さん…?」

 俺はドラゴンを彼から受け取り腕に抱いた。

「あぁ。それについては後でゆっくり話そう。まずはここを出るんだ」

 彼は俺を抱き上げ、歩き始めた。黒尽くめの男は流暢な北の言葉を話している。

 彼が何者であるのかなど俺は考えることにも疲れていた。意識がだんだん遠退いていく。

 気付くと深い眠りについていた。


 暗く深い闇がある。そこに一筋の青白い閃光が現れ、一つの塊となって形を成した。それはスケルトンとなり、俺を切り刻んでいく。俺は猛烈な痛さを感じ、切り離される手足を見た。涙は出ていたのだろうか、息は止まったのだろうか、そして笑んでいたのだろうか。

 俺はそのうち紅の背景に飲まれ、また暗闇の中に引き戻された。

〔リトヴィノフ〕

そう呼ばれると、自分の名のような気がする。もともと名前など付けられていなかった。言葉だけは辛うじて口にできるが、書記の能力はない。親も恐らくそうだったのだろう。

〔リトヴィノフ〕

 その名は何?

 まるで魔法のような響きを感じた。彼女にそう言われるとますますそう感じない訳にはいかなかった。

 そう、彼女。

〔リトヴィノフ〕

 俺は目を開いた。ゆらりゆらりと地が揺れている。恐らくここは船の中だろう。俺は白い(少し黄ばんだ)ベッドに横になっていた。見ると、目の前には少し錆びた銀の動かぬドラゴンがいた。すらりとした女性らしい格好に端正な顔立ちをし、目には澄んだ青色の宝石が埋め込まれていた。高さは三十糎に満たないくらいで、背には綺麗に畳まれた大きな翼が備わっている。蝙のような皮膜の翼を広げ、今にも飛び立ちそうだった。

「名前は彼女が付けてくれるそうだよ」

 男は言った。俺は彼の言葉を聞いて、顔をしかめた。

「触れてみなさい」

 男は俺にドラゴンを差し出した。俺は蒲団の中から細い腕を出し、彼女の長い首にやさしく触れてみる。だんだん冷たかった表面が暖かくなってくる。はじめは自分の体温が移ったのだと思っていたが、そうではなさそうだ。気付くと俺よりも一回り暖かい体温を彼女は帯びていた。

 彼女は瞬きをして、俺の手にその小さな頭を擦り付けた。

〔あなたの名前はリトヴィノフ。私の名前はあなたが決めるの〕

 俺は彼女を訝しげに眺めた。彼女も小さな瞬きをしてこちらの目を見る。

〔何?名前でも考えてくれてるの?〕

 彼女は青い目で語った。

「生きてる…」

 俺は彼女の背にある皮膜に手を触れた。柔らかく、血液の流れる感覚が伝わっている。

〔あなたがいる限り〕

 彼女の言葉を聞いて、俺は少し顔を赤らめた。ふと彼女から手を離した途端、彼女は動きを止めた。

「共に生きる者はお前なんだ。彼女から離れてはならない」

 男はガラクタになってしまった彼女を見て言った。彼女は目を開いたまま動かなくなっている。瞬きもしていない。ただ静かに座っているだけだ。少し顔を上向きにして、澄ました表情をしていた。

「彼らは共に生きる者がいなければ生きることができない。そして、その共存者の鼓動を感じていなければただの置物になる。だから私たちは彼らに触れておく必要があるんだ」

 男は彼女の頭を優しく撫でた。しかし、彼女が動くことはなかった。

「でも……」

 その様子を見ながら俺はベッドから起き上がり、脇に座った。まだ頭がぐらつく。

 気付けば、知らない間に服を新しく着せられていた。前よりは上等だが、普通とは言い難い。V字の白いシャツに灰色の半ズボンを履いていた。そして、どちらも一回りほど大きかったようだった。

「選ばれた者だと思って、彼女を引き取ってほしいんだ。仲間として」

 男は微笑みながら、そう言う。その微笑みには不思議と親しみを感じた。

「仲間?」

 波が高いのか船がぐらっと安定感をなくした。すると男は俺に目を向ける。

「家族という仲間に」

Homeless dayの言葉。

「」…北の言葉    →リトヴィノフ(大半この括弧)
〈〉…中央の言葉   →木庭拓磨
『』…南の言葉    →ポーナ・マンサ
()…東の言葉    →ニト・ニロ
[]…西の言葉    →色々
〔〕…ドラゴンの言葉 →ドラゴン
【】…魔界の言葉   →色々

色んな言葉を話すので登場人物によってこんな感じになります。
なぜこんなにややこしい事をしたのかは…分かりません;
あぁ…違うんだなぁ、って思うだけのものです。
気にせずに読んでください!

第三章

 俺が寝ていたのは船でいう倉庫だった。今は綺麗な部屋として使われているが、窓もないこの部屋ではたいそう息苦しいだろう。

 ただ物を置いておくだけの部屋に蝋燭やランプがなければ住人はどうしたのだろうか。部屋には何種もの可愛らしい大小様々なランプが壁に飾られている。ランプの色が桃色や橙色の多いことから、恐らくここは女性の部屋だと推測された。

『船長!飯できたっての!』

 途端に倉庫の扉が勢い良く開かれた。木製の扉は悲痛そうに金切り声をあげる。

『あぁ、今行くさ』

 男は微笑んで言った。扉の前には目付きの悪い少女が立っている。見かけからすると十代半ばほどの年齢になるだろうか。

 えび茶色でフード付きの上着を着ていたが、中には黒いタンクトップを着ている。そして、履いているズボンは膝を中心に至る所に破れた跡があり、腰のベルト部分には短剣が見え隠れしていた。髪は一つに結わえられ、筒の形のような変わった止め具が付けられていた。

『起きてるんなら、返事しな!みんな待ってんだぞ』

 少女は俺の方を睨み付けて怒鳴った。

「彼女はポーナ。私たちの船のコックだ。腕もいい」

 男は言葉を慎みなさい、と彼女に言った。

 ポーナは男と同じく髪の色が黒く、目は灰色だった。そして、どちらかというと…男っ気が強い。

「彼女…なんて言ってるの?」

 俺は生まれてから、北の言葉以外聞いたことも話したこともない。ましてや、自分のいた土地そのものが世界であると思っていた。そのため、彼女の口から出る言葉は呪文のように聞こえてくる。

 まあ、世界については殆ど考えたことはなかったけどな。

「早く飯食えって言ってんだよ!リトヴィノフ」

 ポーナは怒り狂って、地団駄踏んだ。彼女が何事もなく北の言葉を話したことよりも、その姿に圧倒され、俺はどうしていいのか全く解らなくなり、呆気にとられた。助けを求めて彷徨う俺の手が、ドラゴンに触れる。

〔男でしょ!ポーナぐらいで何怖気づいてんのよ!〕

 ドラゴンは半ば呆れた声をあげた。俺はそう言われても、と顔を伏せる。確かに、今まで暮らしてきた生活に比べれば彼女なんて何ともないまずだ。しかし、彼女の怒声はスケルトンも泣いて逃げ出すような、威嚇にも似たもののように感じられたのだった。

 すると、ドラゴンは俺の腕の中に潜り込み、

〔行け!リトヴィノフ!〕

 と、一声鳴いた。俺は苦い顔をして、ポーナの方を見た。しかし、彼女の姿はない。代わりに男が扉の前に立っていた。

「今から食事なのだそうだ。リトヴィノフもすぐ行った方がいいぞ」

 そう言って彼は駆け足で部屋から出ていった。

「どうなってんだろ……」

 俺はドラゴンを抱いたまま動けなくなっていた。船が揺れ、木が軋む音がする。暫らく静寂が訪れ、俺はふぅっと溜息を吐いた。と突然、また扉が金切り声をあげた。見ると男が扉に手を突き、肩を上下させて立っていた。

「……すまない。私の名を言ってなかったな…。私の名前は木庭、木庭拓磨。好きなように呼びなさい」

 それだけを言い残し、彼はまた足早に去っていった。その時、俺の心臓の鼓動が早くなっていたことになぜか安心感を抱いた。

 彼らや今いるこの場所に少し不安を感じたが、取り分け俺を扱き使う気は無さそうだ。兎に角、食物があるのなら早くその場に行ってしまおう、そう思って俺はベッドから降り、部屋を後にした。


 廊下を一歩ずつ歩くたびに体が左右前後にふら付いた。まったく、どこに食事をするところがあるんだ。

〔さっきもここ通った〕

 ドラゴンは腹が空いているようだった。腹が鳴る。俺じゃない。先程からドラゴンが煩いほど腹の虫を鳴らしていた。そう言われてもこの船は思った以上に広い。何部屋見てきたかさえ解らない。

 あの時、木庭が息を切らしていたのも無理はないだろう。

「ポーナとかいう人…、怒ってるかな?」

 怒り狂ったポーナを想像するだけで、額に汗が滲んだ。

〔恐らくね…〕

 ドラゴンはそれ以降、腹が鳴るのを必死で押さえた。空腹には慣れているが、食事があると知って有り付けない空腹とはまた感覚が違った。この世界の食べ物はどのようなものなのだろうか。好奇心と食欲にふら付きながら、俺とドラゴンは廊下を進んだ。

 暫らく歩き回って、見つけたのは一つの扉だった。標準的な背の高さの位置に四角い窓がついている。俺はそこから見える光景に、あっと感嘆を洩らした。

 窓から青い空が見えた。空は透き通り、雲一つない快晴だ。ちょうど銀のドラゴンの目のようにも見える。

 外の陽光に目の奥がズキズキと痛み、俺は目を細めた。それから俺は躊躇いもなく扉に手を掻け、外に出た。風に押されているのか扉が重く感じられる。

 扉を開けた途端、何とも言えない気持ちのよい風が吹き抜けた。潮風が海の香を運んでいる。ここは海のど真ん中。波の音は子守歌を語り、風は世界を語っていた。

〔お困りのようですね〕

 辺りの風景に気を取られていたその時、誰かに声を掛けられた。空に浮かぶのは青いドラゴン。

 銀のドラゴンほどすらりとはしていないものの、一際長い尾が特徴的だった。彼女の翼は皮膜らしいが、青いドラゴンは鳥のような白い翼を持っていた。大きさは彼女と殆ど変わりない。しかし、青いドラゴンは知的で、彼女とまた別の表情を持っていた。彼は俺の目の前を優雅に旋回し、その長い尾を振った。

〔大丈夫です。ポーナはこんなことで怒りませんよ。さぁ、私が案内いたしましょう〕

 青いドラゴンは、俺が先程通った扉のドアノブに尻尾を巻きつけて、器用に扉を開いた。

「君は?」

 俺は咄嗟に尋ねた。

〔私ですか?私はポーナのガラクタですよ。名をマヌロと申します〕

 彼はそう言って扉の中に入って行った。それから俺も、彼を見失わないよう後につづいた。

〔私は彼女に選ばれたのです。ドラゴンは皆、共存者に選ばれるのです。あなたもそのドラゴンを選んだのでしょう?〕

 マヌロといった青いドラゴンは俺の目の前を飛びながら話し始めた。

「俺は…、ドラゴンなんて…知らなかった」

 ポーナとマヌロでは性格的にギャップが激しく感じられるが、それが互いの穴を埋めあっているようだ、と思いつつ彼に返事を返した。

〔あなたとの出会いは神様が用意してくださったもののようですね。実は、私たちドラゴンは共存者の心の中にいるのです〕

 マヌロは続ける。

〔形になるには共存者の心の中から、私たちを見つけなければならない、それが条件〕

 ゆらりと船体が揺れ、遠くの方で波音が聴こえてきた。

〔ドラゴンの存在を理解した者達が、私たちを固体として現世に呼び寄せることができるんですよ〕

 空腹であまり耳に入ってこなかったが、いくらか俺の興味のある話を彼は話した。

〔…今、話すことではないですね。食事の時間に間に合わなくては困ります。急ぎましょう〕

 そう言って彼は笑いながら翼をはためかせた。なんて礼儀正しいのだろう、それがマヌロへの第一印象だった。

 それからどのような経路でそこに辿り着いたかは解らないが、一際場違いな扉の前まできた。その扉はある一角を賑やかに占めている。

 その扉には棒人間が数人、色とりどりに描かれていた。黒で描かれた棒人間の髪の毛は長くあちらこちらに散らばっている。目は茶色で描かれ、高さが微かに違うけれど、おそらくこれは木庭拓磨であろう。隣にいるのは白いトカゲ。木庭の足元には黄緑で描かれた小さい二人の棒人間。髪は二人とも勢い良く逆立っていた。彼らの傍には茶色のトカゲが二体、火を吹いている。幾分、先程の白いトカゲよりは丁寧に描かれている気がした。他の箇所には、木庭のように黒で描かれた棒人間が一人、青いトカゲを抱いていた(、としておこう)。青から察して、このトカゲはマヌロだろう。他には白で描かれた棒人間がいる。それは片手に赤い杖を持っていた。また、その杖の上には赤いトカゲが無作法に描かれ、その姿はまるで蚯蚓同然だった。

 まあ、纏めて言うと、どれを見てもペンキのインクが垂れて、不気味ってこと。

〔着きましたよ。皆があなたを待っています〕

第四章

 俺はマヌロの言葉を聞いて、その扉をゆっくりと開いた。重さはなかったが、ギシリと扉が軋んだ。

 扉の向こうには、テーブルが二つ隣接して並べられ、すでに六人の人がそのテーブルを囲んでいた。ドア付近の席にいたポーナと目が合ったが、すぐに彼女は視線を逸らした。

 なんて可愛気のない女なんだ。

 彼女の隣には瓜二つの双子がいた。どちらとも髪の毛が逆立っている。歳は俺よりは小さいだろうか。二人は俺の姿を見て恥ずかしそうに顔を赤らめ、少々上目遣いになっている。その隣には空席があり、横には木庭が座っていた。木庭は隣にいた老人と何か話している。話し相手の老人は白髪頭で、姿は元気そうだけれど、左足は見たところなかった。

 テーブルには赤いテーブルクロスが敷かれ、蝋燭の火が赤く揺れている。それから、一人一人にポークソテーとポテトサラダが並べられていた(らしい)。まだソテーからは湯気が昇り、ソースは艶やかに輝いていた。

 今考えれば、旨そうだったな。

「リトヴィノフ、早く席に着きなさい」

 木庭は自分の右側の空いている席の椅子を引いて言った。俺は辺りの視線を感じつつ、彼の方に歩み寄った。

 俺は木庭と双子に挟まれて食事をすることとなった。初めまして、で食欲を剥き出すのは人間的に許せないため、ポークソテーに噛り付くことはなかった。それにまともな物を食べたことがないために、他の者に不快な思いをさせるかもしれない。なかなか食事に手が伸びなかった。
まず俺は目の前の物を食事と判断するのに、少々時間を要した。

「「名前は…、何て言うの?」」

 隣の双子は声を揃えて俺に尋ねた。

「…リト…ヴィノフ…」

 俺はしわがれた声で言った。

「リトーって言うんだ!僕はニトって言うんだよ」

 どうやら擦れ声だったために語尾が聞こえなかったらしい。双子は笑顔で返事を返す。

「よろしくね、リトー兄ちゃん!僕はニロって言うんだ」

 …連鎖した。

 水でも飲もうか。…いやどうなるか解らない。一応、愛想笑いだけで
もしておこう。

「ニト、ニロ。こいつはリトヴィノフってんだよ。飯の食い方教えてやれ」

 ポーナはニヤニヤしながら双子に言った。目はこちらに向けられたままだ。

「そうなんだ!でも愛称だから呼んでもいいよね」

 ニロは目を輝かせて言った。

「あぁ、いいぞ。何とでも呼んでやれ。それより早く飯の食い方教えてやれよ」

 途端に彼女の顔が厭らしく感じられた。まだ、怒っている時の方がましな気がする。俺は恐くなって、隣に座る木庭に目を向けた。

「ポーナ、止めなさい。初めはお前もこうだったんだから」

 木庭はすぐ俺のシグナルに気付き、ポーナに言った。

「そうだな。だけど不様だとは思わねぇよ。自然体さ、自然体」

 彼女は木庭の言葉を受け入れず、面白気に話を進める。

「今まで何も食ってこなかったんじゃ、何も恥じることはない」

 老人は哀れみの目で俺を見ていた。木庭はすでに説得するのを止め、呆れた眼差しで彼らを見つめている。

「君たち…」

 彼は頬杖をついて、水を一口飲んだ。

「僕たちなんか、唸って食べたよ」

 今度はニトが猫のような手つきをし、顔をしかめて唸る真似をした。隣ではニロがケラケラと笑い転げている。俺は彼らが何の事を話しているのかまだ解らない。

「そうだなぁ、私は船長を気絶させて食ったな」

 なんて恐ろしい。

 ポーナは拳を振り回し、殴るフリをした。それを見た木庭の顔は一気に影を成した。その時、話の意味がやっと解った。

 木庭はそれから笑ったままだ。

「そんな事言ったら、ますます食べにくいじゃないか。気にするな、リトヴィノフ」

 無理です。気にします。

「早く食いなよ。皆お前が食うのを待ってるんだから」

 ポーナはまだニヤニヤしている。他の者も恐らくそうであっただろう。

 それにしても嫌味な女だ。

「俺…、いいです。食べるのは…また今度でいいです。助けてくれてありがとう」

 俺は震えながら、軽く会釈した。辺りは静まり、突然の沈黙が訪れる。船が横に激しく揺れた。

「そうきたか!」

 ポーナは大口を空けて笑いだした。

「お前のいた場所は、たいそう精神が鍛えられる場所なんだな!解った。後で部屋に持って行ってやるよ」

 何か解らないが、なんとかこの場から逃れることができそうだ。

「聞いたかもしれねぇけど、私の名前はポーナ。この船のコックだ。私の出身は南の国で、親はどっか行っちまった。戦争に出された私を木庭が救ってくれた」

 食事のことも忘れ、彼らは自己紹介をしはじめた。故意的だったのかもしれない。

 逃げることはできないらしい。全く、なんて奴等なんだ。

「僕らは東の国!僕らは奴隷の子だったから奴隷」

 双子のニトとニロは元気よく言う。どんなことが今までにあったか知らないが、こんなにヘラヘラ笑ってるんならよほどな扱いを受けてきたのだろう。

 ほら、目が合っただけですごく笑ってる。

 そう思うのは未だに俺の中で、笑顔が死と結び付いたままだからだった。

「わしはドンテ。ジジイと罵られているがな。ドラゴンの製造者だ。皆のドラゴンは私が造っている。特に君たちのような苦難は受けていないよ」

 このドラゴンも、と俺が膝にのっていた彼女を差し出すと、彼は思い出したようにそうだ、と言った。

 ドンテは分厚い丸縁の眼鏡をかけ、白髪頭は短く、何より優しい雰囲気があった。そして、彼の左頬には火傷のような五糎ほどの蚓腫れが見られた。

「私はこの船の船長です。中央の国でホームレスをやってました」

 木庭は中央の国出身であるにもかかわらず、本当に流暢な北の言葉を話していた。しかし、中央の国はどこにあるだろう。聞いたこともない発音の国だな、と目を下に向けた途端、俺の目の前にポークソテーが飛び込んできた。

……。

 胃から無駄に胃液が分泌され、俺は腹に激痛を感じた。暫くの間、耐えられる程度の痛みであったが、次第にその痛さも増し、眉間に皺が険しく寄る。内蔵を掻き回されたような激痛。鋭利な刃物でザクザクと刺されるような感覚が全身に走った。目の前が微かにぼやけてくる。もう目も開けていられない。

 俺は投げ掛けられた質問に答えを返す間もなく、床に倒れこんだ。

 その時、俺はテーブルの下で座り込む少女の姿を見た。

『この世の理』



「神様って信じるかい?」

目を細め、夕暮れを見ながら青年は言った。

「信じてないよ、そんなの」

少年は眉間に皺を寄せて、青年を横目で睨みながら言った。

「お兄さんは、信じてるの?」

「ああ、信じてるよ」

青年は優しく微笑みながら言った。

「きっといるよ、僕は、そう信じてる」

「天使や悪魔も?」

「ああ」

「妖怪やお化けも?」

「ああ」

「サンタクロースも?」

青年は、ちょっと目を見開いて少年を見た。しかしまた、すぐに優しく微笑みながら言った。

「もちろん」

「大人のくせに」

少年は口を尖らせて反論した。

「そんなのいるわけないじゃん」

その言葉を聞いた青年は、初めて、少し声をあげて笑った。

「なんだよぉ、なに笑ってるんだよぉ」

青年はまだ含み笑いをしながら謝った。

「いやいや、ごめん。バカにしたわけじゃ無いよ。ただね、人は目に見えないものは信じないんだなって、思って」

「あったり前じゃん!いないんだもん」

すると青年は、少年を見据え、悪戯っぽい表情で言った。

「絶対に?そう言い切れる?」

少年は言葉に詰まった。そんなのいない。だって、みんな言ってる。


…………………みんな?


少年があまりにも考えているので、青年はまた、夕日に目を向けた。

夕日が山の向こうに沈み、辺りは暗闇と静寂に包まれた。

「さてと、そろそろ行こう」

青年は独り言のように呟き、膝に手を付いて立ち上がった。

「え、もう?どこに行くの?行くとこ無いんてしょ?俺ん家においでよ。父さんも母さんもいいって言うよ」

青年は何も言わず、ただ首を横に振った。そして少年に「またね」と言うと、鞄を担ぎ、暗闇の中へと消えて行った。少年はただ、青年が消えた暗闇を見つめていた。

彼はまた、旅に出たのだ―

『St.ニクラウス』



 切ないように粉雪が舞い降りる。家々の屋根には雪が覆いかぶさるように積もっていた。道路には馬車の車輪が幾つも跡を成し、大小様々な足跡が付いている。その夜には小さな足跡が多く見られるものだった。去年とまったく変わりない。

 ある家の屋根の上。アロンはあぐらをかいて座っていた。彼の耳や鼻はすでに真っ赤になっている。掛けていた眼鏡は体温で曇り、必死に鼻を啜るが、今にも滴れてしまいそうになる。

 ふと、呻き声が聞こえた。彼は自分が座っている屋根の煙突に目を向けた。すると、煙突から白い手袋をはめた手が片方。続いてもう片方と手が出てきた。その手袋は煙突の煤で幾らか黒く汚れている。それから赤い三角帽を被った顔中煤だらけの老人が顔を出した。彼はまた呻き声を上げながら、煙突から体を出そうと頑張った。

「また、あんたか…」

 彼は呆れたように言った。上半身が出たところで、老人は煙突の淵に肘を置いて呼吸を整えた。

「懲りない奴じゃなぁ」

 と言いながら、彼は一気に体を持ち上げ、煙突から出た。

「ありがとうございます。どこへ行こうと逃がしませんよ」

 青年アロンは微笑んで言った。アロンの頬が真っ赤に染まる。彼の言葉を聞いて、怖い怖いと老人は呟き、体に付いた煤を叩くように払った。その間、アロンは眼鏡の曇りを取って、彼を眺めた。

 彼は白く豊満な髭を生やし、真っ赤な衣裳に身を包んでいる。

「アロン。一体私が何を見失ってしまったというんだい」

 サンタはため息混じりに横目でアロンを見た。サンタに会えるのは今夜か毎年十二月二十四日と二十五日の深夜の間だけだ。そう神は試練を与えた。

「この前言った通りですよ。貴方は自分を見失ったんです」

 アロンは微笑みを絶やさず、冷静に言った。横目で聞いていたサンタは鼻をフンッと鳴らしながら、

「私が?あり得ないね。毎年欠かす事なく、子供たちにプレゼントを配っている。それをすることが私のあるべき姿だよ」

 まったく、毎年毎年何を言いに来るんだ、とサンタは唸る。

「そうですね。でも、失ってしまったものがあるはずです」
 アロンは膝を抱える格好に座り直した。屋根の上の雪が道路に落ちる。

「何が言いたい」

 サンタは片眉を上げた。

「大人は子供です。そして、貴方も子供なんです」

 アロンは立ち上がり、サンタから目を離して遠くを見た。

「ケツが濡れとるぞ」

 サンタは素っ気なく言った。どこから闔もなく鈴の音が聞こえてくる。夜空の星は七色に輝き、雪は銀白色に光った。

「あちゃ~。まあ、いっか。…で、どうです?それとも影は要らないとでも?」

 アロンは腰を捻って、自分の尻を見た。そこにはハート型の染みが付いている。何ともみっともない格好だった。彼の背後には四匹のトナカイが艝を引いて立っていた。どのトナカイも電球のように鼻が赤く光っている。

「要らないわけはない。生憎、私は仕事で忙しくての」

 トナカイを一匹ずつ宥めてから、彼は艝に跨った。

「アロン、また来年にでも会おう」

 サンタは手綱を引いて、艝を進めた。

「神は今日僕が来ることを知っている。きっと神は貴方に試練を与えるでしょう」

 アロンはポツリと呟いた。鈴の音が徐々に遠ざかって行く。

 しばらく夜空を見上げていたが、彼は屋根からひらりと地面に降り立った。もう日付が変わってしまいそうだ。

「急いだ方がいいみたいですね」

 アロンは一人、夜道を進んだ。家の明かりは用心のための居間の明かりだけだった。もう、大半の人々は寝静まっただろう。その町明かりを頼りに彼は進んだ。

 彼の太腿にはベルトが巻きつけられていた。そこにはパーカッション式の銃が装備されている。金に光る装飾が美しい。


 サンタは次の仕事に取り掛かっていた。こっそりとプレゼントを抱え、煙突に入って行く。

「おかしい…」

 中年太りの腹がつかえたわけではない。どうしてか、煙突に腰まで入ったところで進まなくなった。足元を見ると煙突に底があったのだ。

「神は悪戯がお好きなんですよ」

 突如として現われたアロンにサンタはぎょっと顔色を変えた。

「これで最後です。貴方は影を取り戻したいですか?」

 彼がそう言い終えた後、家が音を立てて崩れ落ちた。サンタとアロンは足のやり場もなく下へ下へと落ちて行った。闇へ闇へ落ちて行った。

「貴方の影をお探しします」

 サンタの耳に微かに届いたアロンの声を最後に、彼らは心の中に引きずり込まれた。


「大丈夫ですか?」

 サンタは目を開いた。目の前に青年の覗き込む顔があり、それに驚いて彼は身を起こした。

「一体…、どうなったんだ…」

「初めは皆、そう言いますね」

 アロンはサンタに手を貸し、彼を立ち上がらせた。

「ようこそ、貴方の心へ」

 アロンは言って、サンタに周りが見えるように彼の背後に回った。そこに広がるのは砂漠の地。灼熱のこの地は見渡す限り何もなかった。太陽がギラギラと照りつける。遠くの方は熱で歪んで見えない。サンタは唖然とその場に立ち尽くした。

「さあ、行きましょう」

 アロンは彼の横を微笑みながら通り過ぎ、先に足を進めた。

「行くって一体…。どこへ?」

 サンタは熱さに上着と帽子を脱ぎ、腕に掛けた。全身から次々と汗が噴き出してくる。

「さあ、貴方の心だから解りませんね」

 アロンはひょいっと肩を上げた。そんな彼をサンタはよく思わなかった。

「貴方が自分の心に入った以上、僕は何にも出来ない。もちろん危険があれば助けますが…。貴方に課せられる試練は三つ。頑張ってください」

 彼らは進み始めた。熱さで目が覚束ない。サンタは必死に苛立ちを噛み殺した。知らないうちに足取りが速くなる。

 無意識にアロンを追い抜かした時、ふと枯れ掛けの小さな一輪の花が視界の片隅に入った。サンタにはその花があり、咲く意味が解らない。彼はアロンの方を振り返った。

「どうしました?」

 アロンは何事もないようにサンタの後ろを付いていた。

「いや…、何でもない。ただ試練の意味が解らんのだ」

 サンタはまた歩き始めた。

「自分に影がないのは何故か、考えたことがないんですね」

 アロンが静かに言う。サンタは拳を握った。

「当然です。考えないから影がないんです」

 眼鏡の奥には静かに佇む藍色の瞳があった。サンタは自分の中の何かを抉り取られる感覚に襲われた。

「お前に何が解ると言うんじゃ!」

 息が荒くなり、滝のように汗が流れた。

「だから僕は貴方の影を探しに来た」

しかし、と彼は続ける。アロンは右手に銃を構えた。

「貴方がここにいる限り、僕は試練の残骸に手を出すことしか出来ません」

 引き金を引く音は聴こえなかった。

―ズガンッ―

 叫び声が響き渡る。

「如何なるものも見逃してはならない。言ったでしょう、神は悪戯がお好きだと」

 後ろを振り返ると、巨大な植物の根がサンタに襲い掛かろうとしていた。その根は数え切れないほど沢山あり、中枢には真っ赤な花が咲き乱れている。もう一発、彼は弾を込めた。

 乾いた音が響き、銃弾は花を切り裂いた。根はサンタに襲い掛かることなくその場に突っ伏し、緑の液体を噴きながら動かなくなった。

「何なんだ…この怪物は…」

 サンタはゴクリと唾を飲み込んだ。辺りは静まり返り、時間を止めたように感じられる。彼の額から流れる汗は暑さのためのものなのか、冷や汗なのかは解らなかった。

「さあ、行きましょう」

 アロンは植物を避けて歩いて行った。サンタは慌てて彼の後を追い駆ける。やっと植物の姿が視界から消え、彼は恐る恐るその方を振り返った。その時、初めて自分が何を見逃すべきでなかったのかを知った。

 枯れ掛けの小さな一輪の花。

 怪物の姿はどこにもなかった。彼は何か思い立ったように引き返し、その花の根を傷つけぬように土ごと掘り出した。そして、自分の帽子に入れてやった。

「何かありましたか?」

 アロンは彼の傍に寄って不思議そうに見つめた。

「いや、なんでもない」

 サンタがそう言うと彼は微笑み、また歩き出した。その彼の後を追おうとした途端、ふと誰かがサンタの服を引っ張った。

「お爺さん、お爺さん」

 振り向くと黒髪の少女が立っていた。

「なんだい?お譲ちゃん」

 サンタは彼女の背に合わせて跪き、汗を拭った。

「お爺さんにこれあげる」

 少女はサンタの手を取り、彼の掌に何かを含ませて走り去って行った。何とも言えぬ状況に彼は唖然としていたが、自分の掌を拡げて見た。

「うわぁっ!」

 彼は驚いて持っていたものを地面に落とした。アロンはそれをじっと見ているだけだ。

「何だこれは…」

 サンタは恐る恐る落としたものを指先で摘んだ。見ると、それはトカゲの干からびた死体だった。何とも言い難く、気味の悪い。

「あの子はこれをどうしろと言うんだ!馬鹿にするのもいい加減にしてくれ!」

 彼はそれを悪戯だと思い投げ捨てた。投げ捨てた直後、彼の胸に不安が押し寄せたが、気にすることなく足を進めた。苛立ちに任せて足を進めていると、ふと鉛が付いたよう足が動かなくなった。不思議に思って自分の足元に目をやると、驚くことに足首が砂に埋まっていた。

 足を進めるごとに自分の足が砂に埋まって行く。流砂だ。すり鉢状になったその流砂の中心には大きな口が開かれている。爬虫類だろうか、真っ黒な牙が規則正しく並んでいる。サンタは必死でその流砂から逃れようと流れに逆らって歩いた。

「次から次へと…。私がなぜこんな目に!?」

 ぶつぶつと文句を言いながら、彼は歩みを進めた。仕事上、力は備わっている。しかし、彼の膝辺りまで砂に埋まった時、その砂の重みで足を動かすことが困難となった。

「大丈夫ですか?」

 アロンが尋ねた。

「大丈夫も何も…これを見ろ!すぐに食われてしまう!早く助けてくれ」

 サンタがそう言って蜿くと、膝が砂の中に隠れた。アロンはうーん、と唸ってみたが、

「できません」

 と、きっぱり言った。

「私の影を探すとお前は言っただろう!何なんだ、見捨てる気か?」

 サンタは更に激しく怒鳴った。

「そう言われても…まだ貴方の第二の試練が続いているので…」

 と、彼は頭を掻いた。

「解った!…解ったから、せめてこの帽子を受け取ってくれ」

 自分の体が埋まりつつある中、サンタは赤い帽子を慎重にアロンの方に投げ渡した。

「何です?」

 アロンは帽子を落とさぬように受け取り、尋ねた。

「花じゃ!」

 彼は短く答えた。アロンはそれを聞いて、なるほどと頷いた。

「半分合格ですね」

 アロンは言った。サンタの目が一気に開かれる。

「まったく…」

 そう彼が言い終えるか終えないうちに、サンタは逆さ吊りにされてい
た。

「知りません?人にしてもらいたいことは自分もしろと」

 アロンはそう言って微笑んだ。彼を逆さ吊にしているのは紛れもなく先ほどの植物だった。植物は根をサンタの足に絡めて、流砂から救った
のだ。

 調度彼が花を救ったように。

 それから植物は無作法に彼を地面にポイッと捨てた。その痛さに悪態をつきながら、サンタは何かに気づき始めた。

「残るは後一つです。頑張りましょう」

 アロンは微笑を絶やすことなく、彼に手を貸した。そんな彼を見て、

「そうじゃな…」

 と、サンタも微笑んだ。

 砂漠地帯だった背景にぽつぽつと草が現れ始め、更に進むと小さなオアシスに出会した。

「飲みますか?」

 アロンは尋ねた。

「もちろん。もう喉がカラカラじゃよ…」

 と、サンタはオアシスの泉の傍に跪いた。まず初めに帽子に入れていた花を取り出し、丁寧に泉の傍に埋め、幾らか水を手で掬って掛けてやった。そして、泉で一旦手を洗い、喉の渇きを潤す。一向はしばらく木陰で一休みすることにした。

「ずっと気になっていたんじゃが…、なぜお前まで影がないんじゃ」

 ふと、サンタが話してきた。アロンは少し驚いたようだったが、

「そうですね…。解らないのが解らないからだと思います」

 と、優しく微笑んでそう言った。オアシスに生える木や草は風が吹くたび、とても涼しげな音を奏でた。

「よく解らんね、毎度毎度お前の言うことは。…まあいい」

 彼はフッと鼻で笑った。そして、よっこいしょとため息混じりに立ち上がった。

「行きますか?」

 アロンはそんな彼を見上げた。相変わらず太陽が照りつけている。

「行こうじゃないか」

 サンタは彼に差し伸べ、進み出した。

 熱気に息が詰まりそうになる。どのくらいになるだろうか、どんなに足を進めても試練が待ち構えている様子はない。砂漠は永遠と続いている。

 サンタの中にまた苛立ちが芽生えた。

「もう、ダメじゃ!幾ら進んでも何にもならん!」

 言ってしまったが最後、彼の目の前に巨大な蛇が現れた。二本の鋭い牙は大人の腕ほどもある。大蛇は牙を向き、当然のようにサンタに襲い掛かった。咄嗟に彼は恐怖に目を伏せた。

「なぜじゃ…」

 サンタの口から震える声が言った。アロンは手で大蛇の牙をしっかりと押さえていた。大蛇は舌をチロチロと動かしながら、なんとかアロンの手から逃れようと、下顎を上下させている。

「なぜ私の選択が間違っているんじゃ!」

 サンタは唸った。

「貴方の選択が心と比例しているからです!」

 アロンは牙を持って蛇をひっくり返し、銃で撃った。

「この土地そのものが、貴方なんです…。サンタクロースは今の貴方では勤まりません。どこの子供が幼心を持たない者からプレゼントを貰って喜ぶでしょうか」

 サンタはゆっくりと目を開けた。

「なぜ、お前にそう言える…」

「同じ立場にならなければ解らないこともあるんです」

 彼はサンタの帽子を手に取り手を中に入れた。

「これをどうぞ」

 アロンが帽子から取り出したものは小さな黄色い包装紙に赤いリボン
でかわいくラッピングされたプレゼントだった。サンタはおずおずと彼からそのプレゼントを受け取った。サンタの掌の上では大きさがとてもかわいらしい。赤いリボンを震える手で解き、黄色い包装紙を剥いて中の箱を取り出した。

「貴方へのクリスマスプレゼントです。開けてください」

 アロンはにっこり微笑んだ。

「大人は子供です。そして貴方も子供なんですよ」

 彼の言葉を聴いて、サンタは箱の蓋を開いた。緊張した面持ちで箱の中を覗き込むと、サンタの一番欲しかったのもがそこにあった。

「プレゼントじゃ…」

 彼は少年のように微笑んだ。プレゼントの中身はプレゼント。彼が自分を見失った理由はまさにそこにあった。

「ありがとう…」

 彼はアロンを見ようと前を見た。

「…アロン?…どこなんじゃ、アロン…」

 どこを見渡しても彼の姿はない。どこからとも無く鈴の音が聞こえる。ここは切ないように雪が舞い降りる町。


 自分の影を取り戻したサンタはそれ以降、大人にもプレゼントを送った。彼は自分の影をセント=ニクラウスと名付け、毎年一月六日の夜、一人の大人にプレゼントを配らせた。影を持つ者になった彼は、無意味にさ迷うことはない。そして神は本当のクリスマスをサンタと世の中に与えた。

 そう、本当のクリスマスは十二月二十四日の深夜から、一月六日の深夜まで。

 悲しまないで、サンタはきっと貴方の元へ…。

第五章

 目を開くとベッドの上だった。あの可愛らしいランプが飾られている部屋のベッドだ。

「目ぇ覚ましたか?」

 ベッドの傍らにはポーナが青いドラゴンを抱いて座っていた。

 ロマンチストなのか…。

 彼女は心配そうにこちらを見ている。船が波に揺れているのか、体を起こすと少し目眩がした。

「俺…」

 ポーナは俺の顔を見て、優しく笑った。

「腹の減り過ぎで、倒れたんだよ。全く、意地だけはあるみたいだな」

 私なんか必死で食べてた、とポーナは笑う。俺より少し年上の彼女は、どこか兄弟のような印象を受けた。

「ごめんなさい…」

 俺は俯いて、謝罪した。ふと、手元にドラゴンがいないのを知ると、勝手に手が彼女を探し求めた。蒲団の中で包まるように隠れていた彼女を取り出し、その背にそっと手を乗せた。

〔あなたが謝ることではないわ〕

 彼女は小さな瞳でこちらを見た。彼女も心配そうに眉を上げている。

「あぁ、そうだな。お前は悪くないな。私らが浮かれてただけさ」

 ポーナは彼女にそう言って、髪止めを弄りながら、立ち上がった。抱いていた青いドラゴンは翼をはためかせて、床に落ちないよう飛んだ。

〔私たちは、仲間がいれば、いるほど嬉しいのですよ〕

 マヌロは俺の目線まできて、にっこりと笑った。

「それもある。が、賭けてたのさ。お前が食うか、食わねぇか」

 部屋中を見渡し、ポーナはランプがたくさん飾られている壁に歩み寄った。

「賭け、って何ですか?」

 彼女の姿を目で追いながら、俺は尋ねた。すると、そのうち教えてやるよ、とポーナは言って、飾ってある中でも一際ステンドグラスが可愛らしいランプを手に取った。

「それで私が負けた。今までの奴等は構わず口に運んだから、今回もそうかなって思ったんだけど…」

 ポーナは手にランプを持ったまま、またベッドの傍らに座った。

〔何を賭けたの?〕

 銀色のドラゴンは興味津々な眼差しでポーナを見て、それからそのすらりと長い首を持ち上げた。

「船の掃除だよ。この船には金目の物なんてねぇんだ」

 賭けというものを知らなかった俺は少し意味が解らなかったが、敗者には決められた罰が与えられるらしい。あの時、無理やり自己紹介を進めた訳も今なら解る。

「俺、掃除慣れてるよ」

 罰を一人で背負うのはよくないと俺は考え、咄嗟にそう言った。あの死んだ土地では、仕事を中断する者やリーダーシップを執ろうとするもの達には罰が用意されていた。火炙りや逆さ釣りは勿論である。

 っとは言っても、罰というよりは死刑と言えただろう…。

「そうかもな。でも、私だって慣れてるよ。私だけじゃない、皆雑用には慣れてる。お前も向こうではひどい扱いを受けてたんだろ?何だってしてきたに違いないよな。皆、これまで色々苦労してきた。ニトとニロは幼い時の記憶を失ったし、私は……、うん。……どうでもいいか。とにかくお前は苦難から救われたんだ」

 そう話した後、腹が減ってるかと聞かれ、俺は解らないと答えた。

「さっきスープを作ったから食え」

 ポーナの言葉は吐き捨てるようにぶっきら棒だ。俺はありがとうと呟いて、感謝の念に浸った。なぜこんなにも親切なのだろうとさえ感じる。

 この船に揺られてどのくらい経ったのか。大半をベッド経過ごしていたため、それを知ることはなかった。しかし、いくら時間が経っても俺に対する木庭やポーナたちの対応は変わることはなかった。俺は彼らを不信に思うこともなく、ただこの状況に安らぎを感じた。

〔やっと食事が食べられるのね!〕

 銀色のドラゴンは羽を慌ただしくバタバタさせた。彼女の背骨が柔軟に左右にしなる感覚が、俺の掌に伝わってくる。今の彼女は細胞の固まりとして存在しているのだった。

「その前に…」

 ポーナは鋭い目付きを俺たちに向けた。彼女の目は鷹の様に鋭く、俺
は光の加減で瞳が小さくなるのを見た。

「私たちは非政府組織だ。言わば、反乱組織。お前はテロリストとしてこれから私たちと行動を共にするんだ」

「……?」

 俺は彼女の言葉に耳を疑った。

〔何、それ?〕

 銀色のドラゴンも訝しげに尋ねる。

「なーんてな。っとは言っても、私らはスケルトンや魔術によって作られた怪物を倒すことだ」

「…すけるとん?」

 俺は彼女に尋ねた。

「お前の村を襲った骨の化け物だよ。何より馬鹿だが、主人には忠実なインプだ」

 インプとは悪魔の一種で、魔介に住む下級の魂だ、とポーナは言う。

「まあ、船長が一年かけて魔術を教えてくれるさ。お前がここに留まってくれるならな」

 そう彼女が言い終えるか終えないうちに部屋の扉からノックをする音がした。

「はいよ。入ってきな」

 ポーナは扉の方に目をやって言った。すると、はい、と扉の向こうから返答があった。恐らく少女の声だろう。か弱く、透き通った声が俺の耳に届いた。

「まだ、後一人紹介してない奴がいるんだ。アイツは恥ずかしがり屋でさ、たまには私の前にまで姿を見せない時があるな」

 と、落ち着いた調子でポーナは言った。それから扉がゆっくりと開かれ、コーヒーカップが三つ乗せられた銀のトレイが見えた。それから少女らしい細い手が見えるはずだった。しかし、目に見えるのは空中をひとりでに浮遊するトレイだけ。俺は自然と息が止まった。

「名前はマンサ。永遠の十歳だ」

 彼女はトレイを受け取り、俺にカップを一つ手渡した。中にはコーンポタージュのようなスープが温かいまま湯気だっている。

「…ありがとう…。マンサ…は?」

 俺は早くなる鼓動を押さえて、ポーナに尋ねた。

 ここだよ、とポーナは指をベッドの下に向けた。俺はぎょっとして、彼女にもう一度尋ねた。しかし、彼女の返答が変わることはなかった。俺はポーナにスープを手渡し、一旦ベッドから這い出て目を擦った。銀色のドラゴンをガラクタにしてベッドの上に寝かせた。それから、踏み潰された蛙のような格好でベッドの下を見た。

「ぎゃあああぁぁぁ!」

 途端に叫び声が部屋中に響き渡った。俺じゃない。ベッドの下には青白い少女が頭を掻き毟りながら、悲鳴を上げている。彼女は膝を折り曲げて座っていたが、すぐに立ち上がり、ベッドを貫通してポーナの背後に逃げた。

「ぎゃあああぁぁぁああああああぁぁ!」

 尚も叫び続ける彼女に声を掛ける気も失せた俺は、ポーナからカップを受け取り、ベッドの上に座り直した。

「そんなに恥ずかしがっても仕方ないだろ?」

 ポーナは呆れ顔で言った。しかし、マンサは顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。もちろん、叫びながら。

〔彼女、異常なほど照れ屋みたいね〕

 いつ触れたのか、銀のドラゴンは俺の右肩に乗って、スープをねだった。

「こいつ元から恥ずかしがり屋だけど、更に男もダメらしい…」

 へぇ、と俺は頷くだけで他に言うべき言葉を見いだせなかった。マンサは髪の毛を掻き毟ることを止めたものの、まだ嗚咽に呻き声を上げている。その時、俺はカップを傾けた。ゴクリと一口飲んでから初めて、しまったと思った。そんな思いとは裏腹に、温かいスープが喉元を通り過ぎて行くのが分かる。しかし、体に異変はなく、食欲に狂ってしまうこともなかった。

 なんとか大丈夫だ。

 俺は神経を張り詰めたままゆっくり、ゆっくりとスープを飲み干していった。

 なんだ、どうってことないじゃねぇか。

〔全部飲んだ!!私の分は!?リトヴィノフ!〕

 そんな銀色の彼女に耳も貸さず、俺は満腹感を味わっていた。

第六章

「おっ、飲んだか。じゃあ、外に出ないと」

 ポーナに束の間の休息を奪い去られ、俺は彼女が手を引くままに駆け出した。俺は透かさずドラゴンを胸に抱き、カップが背後で音を立てて割れたのにも気を止めずに走った。外に通じる扉は全部で三つ。そのうちの一つはすでに俺は通った。どうやら今回は、俺も通った扉のようだ。扉がひとりでに開き、俺たちは青の見える船の甲板に出た。

 途端に俺の体に異変が生じはじめる。気分は悪くはないのに(寧ろ、よかった)、口からモノが溢れ出そうになった。俺は必死に溢れるものを押さえようとするが、あの時と同じように口元を押さえていた手の指の間から、次々と溢れだした。仕舞には手で押さえることもできず、甲板にモノをぶち蒔けた。大半は胃液だったが、数日前(だろう)、食べた土が雪崩のように出てくる。また口の中がざらつき、嫌な思いが込み上げてきた。

「味はどうだ?ポーナ様特製スープのお味はよ?」

 荒く咳き込んで、俺は気管に入った水分を取り除いた。口の中の違和感はなぜかしら安堵を齎した。

「なんというか……ゴホッ。最悪です」

 ポーナはバケツに海水を掬って、甲板の掃除にとりかかった。

「きったねー!お前、土を食ってたのかよ?」

 ポーナはデッキブラシでガサガサと汚れを掃きながら、驚き半分、嫌味半分に声を上げた。

「食べるものがなかったから…。でも食べてなかったらドラゴンを知らなかったと思う」

 俺は何となく母の顔を思い描いた。
倒れてから、まる一日が経ってしまったのだろうか。少し雲が見られるが、今日は程よい晴れだ。俺は甲板の片隅に座り込み、度々そよぐ潮風にあたって一休みしていた。船は舵をとられて、青い世界をすでに進みはじめている。

〔もし、あなたを見つけられなかったら…、私はどうしてたかしら?〕

 銀のドラゴンは青い世界に目を向けた。

「もし…、か。…でも、俺は今、君の傍にいるから…」

 俺には行く宛ても、頼る宛ても他になかった。選択は初めから決まっている。これで俺は救われたんだ、とその時は思っていた。

「俺にもブラシ貸してくれよ」

 俺はドラゴンを肩に乗せ、さっと立ち上がった。ポーナは、

「あぁっ?舐めてんのか!?このくらい一人でできるっての!」

 と、手元を荒くして言った。俺も何かしら声を荒立てて彼女の方に歩み寄った。

「解ってるよ、そんなこと…。手伝わせてって言ってるんだ」

 当時の俺にとって、これ以外の言葉は思いつかなかった。

 今だったら、何て言うか?そうだなぁ。…、かわいくねぇ女だなぁ、かな?

 俺はポーナからデッキブラシを奪い取り、二三歩下がった。

「手伝うったら、手伝うんだ!」

 ポーナは両手を頭に当て、白けた目を俺に向けた。

「好きにしなよ。知らねーぞ、船長が何て言うかな?」

木庭は所謂、保護者だ。彼は子供のことについては何かと煩い、と彼女は言う。彼女はまだ子供だった。少し大人びているが、父親の言い付けを気にしているところなどは、それらしい。

〔いいじゃない。あなたがやったことにすれば〕

 ドラゴンの言葉に押されて、ポーナはそれもそうだと言って、甲板の片隅にあったもう一本のデッキブラシを手に取った。掃除をすると共に船内の案内をポーナがしてくれる事となった。


(これから北上するんだけど、もう少しここらに留まった方がいいかな?)

 木庭は古びた舵を左に大きく回した。この船の操縦席は、船内のほぼ中央部にある。彼らがどのようにしてこの船を手に入れたのかは定かではないが、かなり年期のはいったものとなっていた。

(リトヴィノフを保護できたが…、ドラゴンを飛ばした方がよいかな?)

 彼らは流暢な東の言葉を話していた(木庭にとっては母国語だが)。ドンテはパイプに火を点けながら、外の様子を見るための望遠鏡を覗いた。

 ドラゴンの本来の姿は、ガラクタの時とは比べものにならないくらいの巨体を持つ。体長は約五~十メートルと巨漢で、翼を持つものはまた更に大きい。しかし、彼らの本来の姿はその巨体ゆえに目立ち、遠方の目撃者が多発してしまう可能性が高い。ましてや木庭ら、非政府組織の者として政府に目撃されるのは決してよいものではなかった。そのため、ドラゴンはガラクタの姿で大半の時を過ごしていた。

(じゃあ、お願いするよ。佳子さん)

 シルクのような艶やかな白い皮膚のドラゴンは、木庭に連れられ、船のテラスに辿り着いた。

〔拓磨さん、最近嬉しそうですね。何かありました?〕

 白いドラゴンはとても品が良く淑やかだった。白く長い睫毛の隙間から見られるえび茶色の瞳は木庭とよく似ている。

(まぁ、ね。これからは失わないようにしなきゃな)

 木庭は佳子ににっこりと意味ありげに微笑んだ。

〔そう…。では行ってきますね〕

 彼の様子に満足をしたのか、佳子も微笑みを返した。そして、か細い皮膜の翼を広げて、青い世界に飛び立って行った。

(気を付けて帰ってきなさい)

 木庭は佳子の姿が見えなくなるまで見送った。その時、俺は驚いてわぁっ、と声を上げた。

「だっせーっての!」

 ポーナのからかい声を朧げに聞きながら、俺は海に落ちて行った。正確には彼女に突き落とされたのだ。肩に乗っていた銀のドラゴンは俺の腕を持って、船に引き上げようと必死に翼をはばたかせていた。しかし、彼女の体はあまりにも小さすぎた。

〔重たぁ!〕

 と、彼女の声が聞こえた途端、

「わぁっ!」

 とまた俺は声を上げた。ふいに体が海面から引き上げられ、空中に放り出されたのだ。眼下にはポーナが俺の方を見上げ、口をあんぐり開けている。それからゆっくりと船の甲板に降ろされた。俺の肩には先程と同じように、銀のドラゴンがちょこんと座っている。

『船長!』

 ポーナは急に叫びだした。すると船のテラスから、木庭がひょっこりと顔を出した。相変わらず、伸ばし放題の黒髪が波風に揺れている。今日は黒いロングコートを着ていないらしい。いくらか怪しさが押さえられているが、まだ彼には黒が多かった。

『コイツが!コイツがっ…』

 彼女はどこの言葉かわからない言葉で吃っていた。ポーナは怒りの表情を顕にしている。

「何…言ってんの?」

 他国の言語を知らない俺にとって彼女の表情だけが頼りだったが、その表情がどこから来るものなのかまったく解らない。俺はずぶ濡れになった服やズボンを絞って、髪の毛を両手で掻き上げた。

『どうした?何かあったか?』

 木庭は口元に手を添え、よく聞こえるように言った。

〔彼女、リトヴィノフを海に落としたのよ!〕

 銀のドラゴンはすらりとした首をのばして木庭に言った。鼻を鳴らして、眉を上げているところが馬鹿馬鹿しく感じられる。

『でも…、コイツ!…ドラゴンを!』

 彼女の口から、ドラゴンと聞き取った。が、思い当たる節はない。

『今そっちに行くから、待ってなさい』

 それから木庭がテラスから消えた。その間、俺はポーナの鋭い眼差しに捕らえられていた。彼女の灰色にくすんだ目の勇ましさは、見られたものの胸を掻き毟る。殺気にも似ているが、俺は憎しみの意のように感じられた。コツンっと靴音がした。その時やっと彼女の眼差しから逃れることができた。

「どうしたんだ!?ずぶ濡れじゃないか」

 俺の姿を見るや否や、木庭は慌てて両手を振り回した。

 そんな、オーバーな…。

「これはコイツのドラゴンじゃねぇ、誰のを奪った!」

 ポーナは俺の方を指差して言った。

 まあ、誰のドラゴンであったかなは知らないが、奪った覚えはまったくない。

「ポーナ」

木庭はぴしゃりと一言、彼女の名を呼んだ。

「だって、コイツ名前なしでっ…」

 やはり彼女は子供っぽく感じられた。だって、と弁解しようとするところなどはまたそれらしい。

「咄嗟に口から出たんだろう。そうだね?」

 彼は俺の方に目を向けて、ウィンクで合図を送ってきた。

「う、…うん」

 俺はそうどぎまぎしながら答えた。もしかするとポーナの目には不信に映ったかもしれない。

「マヌロの時のことを考えよう、ポーナ。彼の本当の名前を言い当てられた時は、偶然じゃなかったか?そうだろう?」

 木庭の言葉にポーナはやっと静かになった。恐らく図星なのであろう、彼女の目に力はない。

「私たちは偶然の中を生きてるんだ。何が起こっても必然ではないんだよ」

 彼は優しく彼女に語りかけた。

「もし、ドラゴンの姿が政府の目に触れたとしても偶然なんだよ。まぁ、偶然の前には原因があるがね」

 彼女に向けられていた言葉であったが、俺は怒られたようで申し訳ない気持ちになった俺の中で不安が渦を巻いた。

「リトヴィノフ、着替えた方がよさそうだ。船の中に入りなさい。ポーナは…解ってるね…」

 彼女は黙ったまま浅く頷いている。俺はその姿を横目で見ながら、木庭に連れられ船の中に入って行った。

第七章

〔ごめんね…、リトヴィノフ〕

 彼女は船内に入った途端にそう切り出した。

「何が?」

 俺はきょとんとして、彼女の方を見た。彼女は翼や頭を力なく垂らしている。銀のドラゴンは俺と目を合わせまいとしているのか、そのまま顔を伏せた。

〔私のせいなのよ。ポーナが怒るのも無理ないの〕

 彼女の言っていることが理解できない訳ではなかったが、どうも納得がいかない。

「君のせいじゃないよ。ポーナがリトヴィノフを海に落としたのが原因だから。私も上手く対処できなくてすまない。彼女も悪気はなかったと思うから」

 落としたことについては悪気があったのだと思う。いくらなんでも、急に突き飛ばされて、故意的でないとは思いたくもない。それよりも何か得体の知れないスープを飲まされて…。

「彼女が悪いなんて思ってないよ。なぜ、ポーナは怒ってるの?」

 半分は本心の言葉だ。

「君のドラゴンがもとの姿に戻ったからだよ。彼女と出会った時の姿が本来の姿なんだ」

 あの夜のことを忘れたりはしない。いろんな意味で。

 その時の彼女は家より大きく、あの洞窟よりも大きかった。とてもこの世の生きものではないような気が、今でも俺の中に立ち込めている。

「わしら非政府組織にとって、彼らの本来の姿が政府に知れては困るんじゃ。政府はドラゴンを捕らえようともするし、わしらを殺そうとするからの」

 いつからいたのか、俺たちが話していると、後ろから彼の声が聞こえた。ドンテは左手に赤い杖のようなものを持ち、もう片方にコーヒーの入ったマグカップを持っていた。左のズボンの裾は太もも辺りで完全に縫って塞がれている。

「何か悪いことをしたの?」

 俺はドンテの足から目を離して尋ねた。

「わしらは何も。だが、そのうち解るさ」

 ドンテはそう言って、コーヒーを啜りながら食堂の方へ歩いて行った。そして、赤い小さなドラゴンが鶏の雛のような足取りで彼の後を追って行った。

「彼女は生まれた時から軍と関わってきたから。だから、正義感…というよりもプライドが人一倍高いんだ。上官の言ったことは絶対で…」
 木庭の顔色が変わった。

「木庭が上官ってこと?」

「…。ああ、軍に例えるとそうなるね。だから、敵に出会った時以外は、ドラゴンの姿を見せてはいけない、と彼女に言ったことがあるんだよ」

 なるほどね。そりゃ、あんな目付きになるよ。

 それから木庭に連れてこられたのは、こざっぱりした船の一部屋だった。ちょうどランプが飾られている部屋の隣にあった。

「俺の部屋…?」

 木庭は好きに使いなさいと俺に言った。ここが俺の部屋か、ここがポーナに案内を頼んだ部屋なのか、と思うと息が詰まる。そう思うのは、彼女は人一倍プライドが高いのではなく、本当に正義感の強い人間なんだと気付き始めていたからなのかもしれない。


 ポーナは甲板の隅に座り、デッキブラシを片手に弄んでいた。見たところ不機嫌そうではなかったが、自棄に上の空だった。すると、ゆっくりと船内に通じる扉が開き、青いドラゴンが顔を隙間から出した。

〔拓磨様から言われたでしょう?〕

 すでにマヌロは俺たちに何があったのか知っていた。

『解ってるよ』

 ポーナは上の空のまま、静かに言った。

〔あなたの悪い癖です。あなたにとって当然であることが、他人にとっては当然ではないのですよ〕

 船の甲板に出て、マヌロは翼をはためかせながら彼女の方に近づいた。

『解ってるよ』

 また、先程と同じ調子で彼女は答える。そんな彼女を見てマヌロの眉がぴくりと動いた。

〔いいえ、あなたは解っていません。解っていたのなら、なぜ急に彼を怒鳴ったのですか?〕

 ポーナは彼の方に目を向けた。相変わらず、目付きの悪い白けた目をしている。

『当然だろ』

 彼女はきっぱりとそう言った。

〔その言葉は、あなたが言うべきものではないでしょう。まだまだ、子供っぽさが抜けませんね〕

 マヌロはそう言って、ふっと笑った。嫌味なのだろうか。

『あぁ、私は子供っぽいさ。他の誰よりもな』

 彼女は無表情に言った。

『でも、私はすべて知ってるつもりだ』

 そう言って、彼女も肩を竦めて笑った。それから、ポーナはふうっとため息をつきながら、よっこいしょとデッキブラシを杖にして立ち上がった。

〔どこへ行くんです?〕

 マヌロは彼女とすれ違いざまに尋ねた。彼女は扉の横にデッキブラシを立て掛けて言う。

『癖を直しに』

 ポーナは扉のノブに手をかけた。


「こっち向いてよ」

 俺は彼女の顔を覗き込んだ。この部屋に案内されてから半時間ほどになるが、未だに銀のドラゴンは俺から目を逸らし続けている。

 俺はどうしていいのか解らず、彼女に触れていることしかできなかった。

「お前は…、誰のドラゴンなの?」

 俺の言葉を聞いて、彼女は勢い良く首を反らせた。青い瞳はどこまでも澄んでいた。

〔あなたがいる限り、リトヴィノフ…〕

 ぽつりと銀のドラゴンは呟いた。

〔共存者はあなた以外の誰でもないわ。ごめんなさい〕

 なぜ謝るのか、と尋ねると、

〔あなたがポーナに疑われてしまったからよ…。リトヴィノフはまだ政府がどんなに恐ろしいものか、まだ理解していない。だから、ポーナたちの気持ちを理解してあげられないの〕

 ドラゴンはすべての人々の心に存在しているために人の心を読むことができるのだ、と銀のドラゴンは言う。ここで暮らす者たちは互いに必要としながらも心の片隅で疑いを持っている。誰が裏切るのか、つまり誰が政府のスパイなのか、と疑わざるを得ないのだ。俺はその時いい知れぬ不安にかられ、ドラゴンからふと手を離した。

 すでにドラゴンは俺の方を向いたまま動かなくなっていた。床に彼女を置きながら座り込んだあと、俺は長いため息をついて目を閉じた。

 俺はやはりここにいるべきではないのだろうか。だとして、俺はどこに留まればいいのだろう。

 何も解らない俺は、何より足手纏いになる。今でさえ木庭には申し訳ない。それにポーナに謝りたくとも、彼女が俺を疑い続けるかもしれないと思うと気が引けてしまった。俺はずっと馬鹿なままなのかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺はまたため息をついた。その時、部屋の扉のノックが聞こえた。

第八章

「誰?」

 俺は扉の方に目をやった。

「ドンテじゃよ。片足のジジイじゃ」

 俺は扉を開けて、彼を招き入れた。

「調子はどうだ?」

 部屋に入るなり、そう言った。俺は解らないと答えて、部屋の隅にあるベッドに腰掛けた。気付けば自分のことさえ解らないらしい。このままでは口癖がわからないになってしまいそうだった。

「言葉は大切なものじゃよ。大切に使わなければ、ひどい目に遭うぞ」

 彼も俺の隣に座った。それから観察するように俺の方を眺めた。

「と、いうのが魔術の基本だ。リトヴィノフは魔術の使い方を知ってるかい?」

 急な彼の話題転換に圧倒され、俺は首を横に勢い良く振った。

「基本についてはわしが説明しよう。応用や雑学は拓磨に習うがいい」

 彼の手元を見ると、赤い小さなドラゴンが巻き付くようにドンテの腕にしがみ付いていた。銀のドラゴンやマヌロとは違い、赤いドラゴンには翼がなかった。

「まずは、わしのドラゴンを使って実験をしよう」

 ドンテは腕にしがみ付いているドラゴンを無理やり引き剥がし、ベッドから見える床にそのドラゴンを座らせた。

「こいつを見つめるんだ。目を見つめるだけじゃない」

 とにもかくにも俺は言われたとおり、ドラゴンの方を見た。

「イメージとしては心を引っ張りだすように、集中するんだ。目を瞑ってもかまわん」

 何を言っているのか解らなかった。赤いドラゴンは不安そうな目付きでこちらを見上げている。すでに潤んだ瞳からは涙が零れ落ちそうだった。その涙が流れ落ちるのがいつなのかを見つめていると、

〔ピンは何もしてない。何も悪いことしてない〕

 と、耳元で誰かの声がした。俺ははっとしてドラゴンから目を離した。

「相手の心が聞こえても気に掛けるな」

 ドンテにそう言われ、俺はまたドラゴンに目を移した。無理やりドラゴンの声を消し去り、心の中にそっと手を入れた。自然と手が動き、物を掴むような格好をしてドラゴンの心を掴み取る。重たく、圧倒感のある手触りだった。

 ドンテがその時、俺の耳元で呟いた。

 両手を軽く握り、

【イッシュメニアー】

 そう俺はドンテの呟いた言葉を繰り返した。その手を前に出して、俺は互い違いの方向に手首を捻り、雑巾を捻るようなジェスチャーをすると、ドラゴンは縮まるように体を捻らせた。まるで雑巾のように絞られ、俺が気持ちをぐっと込めるとさらに体が捻れた。ドラゴンは床で転がりながら、キーキーと鳴いている。

 俺がふっと笑うと、ドラゴンの体は元通りになった。

「上手いもんだなぁ。初めてにしては上出来じゃ」

 ドンテは関心の目を俺に向けた。床では、ピンがぐったりと仰向けに倒れている。口をだらしなく開け、舌をちろちろと動かしている。それは紛れもなく降参のポーズだった。

「ピンは大丈夫なの?」

 俺が心配そうに尋ねると、

「まあ、大丈夫じゃろう」

 と、何事もなく彼は言った。

「これは間接的な魔術じゃ。他にはこんなこともできる」

 ドンテは人差し指を立て、

【ハーミネドゥビナ】

 と言って、その指に息を吹き掛けた。すると、ライターのように彼の指先から火があがった。ゆらゆらと火は踊り、彼の指を傷つけることはない。

「ハーミネとは、燃えると言う意味の言葉。ドゥビナは空気のことだ。古代語の単語を組み合わせて、魔術を作り出すんじゃ。この力はドラゴンを手にしたものと神に選ばれた、ごく僅かな者に与えられる力だ」

 彼は続ける。

「魔力は意識的に変化を伴うことができる。わしの指がさっき燃えなかったのもそうだ。例えば、この火の火力をさらに大きくしたければ…」

 彼はハーミネと指先に鋭く言った。すると、忽ち火は大きく揺れ、俺の顔ほどある炎と化した。

「心を込めること。これが魔術の基本だ。あとは自分で必要だと思う古代語を覚えるだけじゃ」

 彼はまた指先に息を吹き掛けた。炎は一瞬にして、ドンテの指先から見えなくなった。

「どうやって古代語を?」

 俺は彼の方を向いて尋ねた。

「操縦室の隣に図書室として使用している倉庫があるから、まずは本を一通り見ておくといいだろう。あるのは古代についての物ばかりだ。どれを手に取っても損はない」

 ドンテは立ち上がり、

「ピン、いつまで寝てるんじゃ。早く起きんか」

 と、彼を叩き起こした。ピンは頬を叩かれ、体の節々をポキポキと鳴らして、怠そうに身を起こした。そして、ドンテの足を攀じ登り、彼の肩に座って、

〔ピン、もう実験台イヤ〕

 と、ため息混じり肩を竦めた。俺はごめんよ、と言って彼らを部屋の扉まで見送り、戸を閉めた。すぐに彼らの気配は遠ざかって行った。

 俺は一人になり、また色々なことが頭に浮かんだ。こうしている間、ポーナは何をしているのだろうか。俺はこの複雑な思いを一時でも早く消し去りたかった。振り替えれば銀のドラゴンがこちらを見ているし、気まずいこと、この上ない。ベッドは先程、腰を下ろしていたために、少々皺が蜘蛛の巣のように見られた。俺は、とにかく何かしようと部屋の中をうろつく事にした。


 それから、一ヶ月がたった。体調も優れ、体重も標準並に回復し、ここの生活にもある程度慣れた。

 未だに、ドラゴンとは口を利かなかったが…。

〔拓磨さん、拓磨さん〕

 船のテラスに白いドラゴンが舞い降りる。木庭は腕に彼女を乗せ、髪を片手でかきあげた。

(何か見つかったかい?)

〔ええ。ここから東に五十キロ程行ったところに村があったわ〕

 佳子は澄んだ声で話した。

(思わぬ見落としだ。行った方がよさそうだね)

 木庭は少し、不安そうな顔つきをして海の向こうを眺めた。

(まあ、無事で何よりだ。お帰り、佳子さん)

 彼の言葉に佳子は花のように笑いかけ、ただいま、と一声鳴いた。そして、木庭は彼女を腕に抱き、船内に戻っていった。

 しばらくしてから、服をしかえ、部屋を出ると双子にバッタリ出くわした。彼らは同じように同じようなドラゴンを頭の上に乗せて、廊下を走り去ろうとしている。

「急いでどこ行くんだよ」

 俺は部屋の戸を閉めながら、彼らに尋ねた。すると、ニトとニロはやぁ、と言って、駆け足をしたままその場にとどまった。

「父さんから、緊急出動命令さ。リトーもおいでっ」

 父さんとはおそらく木庭のことだろう。それよりも、出動という言葉がはっきりと発音できていない。ニトは息を切らしながら、早く前に進みたい衝動にかられていた。ニロも同じように、

「早く、早く!リトーのドラゴンを持って、操縦室に行くよっ」

 と地団駄を踏んだ。彼らが動くたび、頭上のドラゴンは鳩か、あるいは鶏のように首をうねらせていた。このままでは、首の振れが止まらなくなってしまうだろう。俺は操縦室と聞いて、図書室の場所が確認できると踏んだ。

「今、持ってくるから待ってて」

そう彼らに言って、またドアを開けた。ベッドとちょっとしたソファー以外、特に見当たらない部屋には、ぽつんとドラゴンが床に座っていた。

〔持ってくるから待ってて〕

 彼女は俺にそう鸚鵡返しをした。ゆっくりと彼女の元に足を進める。

 そして、少し躊躇いながらも、俺は銀のドラゴンを抱き上げた。

「ごめん。俺は何も知らないから。まだ何も知らない、弱いただの馬鹿だから」

 賢く、強くなって、幸せな世の中で生きたい。当時は、そう後に続けたかった。

〔あなたは馬鹿ではない。でも、私を物扱いするのなら馬鹿だわ〕

 彼女は俺の腕の中に潜り込んで、小さく首を振った。するとニトとニロが声を合わせて早く、と扉を叩いた。

「一緒に行こう。君を連れていってあげる」

 俺は小声でそう言って、彼女の背を軽く叩いた。

〔それでこそ、リトヴィノフ〕

 彼女は長い首を持ち上げ、翼を思い切り伸ばして、抱えやすく態勢を整えた。

〔でも帰ってきたら、この部屋に何かもっと置こうよ〕

 俺はその話を軽く流して、部屋を小走りで出た。それから、ニトとニロに撓むられながら、木庭の操縦室に向かった。相変わらず、入り組んだ造りになっているこの船は、通路をすべて覚えるまでどのくらいの時間が掛かるのか、見当もつかない。見た目はぼろい木製の船だが、中の一部は近代化されている。

 特に食堂と操縦室はそうだった。キッチンは見損ねたが、確か電子レンジがあったはずだ。電気は通っているかは知らないが、ポークソテーはガスや電気がないと作れないだろう。ここに来て日の浅い俺は、とてもじゃないが下手に動くことができなかった。どこに行くにも多大な時間を要した。

 そもそも、その時の到着地点は外ではなく食堂であったのだが…。

 駆け足で双子についていくと、鉄の扉が見えてきた。銀白色のその扉は開かれ、中からはマンサの叫び声が聞こえてくる。

『きゃああああ!私もそう思うわあああああ!!』

 扉を潜ると彼女が頭を掻き乱し、室内を飛び回っていた。マンサが俺の姿を目にした途端、さらに激しく髪の毛を掻き毟った。

「服は着替えたね。まぁ、こっちに座りなさい」

 木庭がマンサの体を通り抜けて声をかけた。マンサは木庭の背で髪の毛を掻き毟り、叫ぶ。奥で舵のような円形の物を手にしていたドンテもこちらの方を振り替える。

 操縦室と呼ばれるこの部屋には、外の見える潜水艦用の望遠鏡が設置されていた。床には海図や地図が並べられ、丸まらないように何枚か、四つ角に重しの石が置かれている。ドンテを囲むように並ぶ机の上には、大小さまざまなコンパスと船の見取り図が見られた。彼の前には二つの丸く、大きなスクリーンがある。そのスクリーンには海上の風景が映し出されていた。

 辺りを見渡しながら俺は木庭に誘導され、部屋の一角にある長椅子に腰掛けた。それから、双子は俺の両側に腰掛け、頭に乗せていたドラゴンを膝の上に置いた。

「さあ、仕事だ。仕事場に行くメンバーを言うから、お前達はよく聞きなさい」

 俺はここに来てから、ずっとポーナがいないことに歯痒さを感じていた。

〔大丈夫よ。彼女は真直ぐな心を持っているわ〕

 銀のドラゴンは優しく俺を宥めた。彼女の言葉に頷くこともできず、俺は辺りを見回した。

「リトヴィノフ、君は私と共に行こう。何事も経験だ。ニトとニロはドンテと船の見張り番ね」

 木庭の声に俺は、はっとした。彼の後に続けて、

「リトーはポーナと仕事するんだ!」

 ニロはそう話した。俺が彼の方に顔を向けるとすごいね、と笑顔で返事を返してくる。なぜ俺がポーナと共に仕事へ行くと彼に言われたのか解らない。

 俺が木庭の方を見て、口を開きかけると、また叫び声が沸き起こった。

第九話

「あぁぁぁあぁあぁ、ドラゴンの骨をおおおおおおぉぉぉおぉぉ!」

マンサは物凄い形相で、話した。相変わらず彼女がまともな顔で俺の方を見ることはなかったが、マンサは俺に指差して言った。

 彼女の言葉に木庭は思い出した、と目を見開いた。彼はさっと立ち上がり、ドンテに何らかの言葉をかけて俺の方を見た。

 いつの間にか彼の肩には真っ白な美しいドラゴンがたたずんでいる。白きドラゴンは透き通ったその茶色の瞳をこちらに向けていた。その目は優しさに満ちている、とその時俺は感じた。

 おそらく今もそうなんだろうな。

 彼女は軽く頭を下げ、初めまして、と静かに言った。

「ちょっと私に時間をくれるかな」

 木庭は俺と銀のドラゴンを連れて、操縦室を出た。


「ドラゴンは共存者がいなければ、元の姿に戻れないことはもう知っているね」

 木庭は俺の前を歩き、そう話しかけた。

「この船にいるドラゴンは自由に動くことができる。もちろん、共存者なしでね。でも、これは魔術じゃない」

 そういえば、マヌロやピンが飛んだり、歩いたりしていたことがあったな、と俺は思った。銀のドラゴンは俺が触れていないと動くことはない。しかし、わざわざ動いてもらっても、俺のドラゴンはうるさいだけではないだろうか。

「共通の条件は名前を持つこと。ドランゴンもね。そして、共存者の鼓動が傍にあること。共存者の鼓動を常に感じるには、人が彼らの一部を身につけるか、彼らが人の一部を身につけるかの二つしかない」

 木庭は指を二本立て、俺に向かってその手を振った。

「木庭はどうしてるの?」

 俺が尋ねると彼は急に立ち止まった。危うく俺は彼の背中で顔面を突っ伏す格好になりかけた。

「恥ずかしい話だが、昔、佳子に噛まれたんだ。出会って間もない頃、ちょっとしたことで喧嘩をしてね。噛まれたときに彼女の歯が折れて、今じゃ私の腕の中だ」

 彼は自分の左腕を指差して言った。肩の上では佳子がくすくす笑っている。

「木庭はどうしてるの?」

 俺はもう一度同じ質問をした。

〔彼に冗談は通じないわ。つまらないほど〕

 銀のドラゴンはそう一声鳴いた。

〔拓磨さんは私の牙をペンダントにしているの。私の毛で編んだ紐につりさげてるわ〕

 佳子はほほ笑みながら、そう話した。

「佳子さんが私の腕を噛んだのは、紛れもない事実だけどね」

 そう言って、木庭は佳子の頭を撫でた。彼らを見ていると、俺の目にはまるで恋人同士のように映った。

「俺もそれがいい!ペンダントがほしい」

俺は好奇心に目を輝かせて言った。

〔リトヴィノフ、私は鱗の体よ。毛はないわ〕

 銀のドラゴンはそう言うのだが、俺の耳には入らなかった。


 地下にあたるのだろうか、俺たちはだだっ広い部屋に辿り着いた。部屋には置物のドラゴンが無数にたたずんでいる。

「まあ、その辺りに腰掛けていなさい。すぐ済むから」

 木庭は辺りを見回しながら部屋の奥へと進んでいった。

〔私たちはここで皆に出会ったのよ〕

 佳子は木庭の肩からひらりと飛び降り、俺の足元に歩み寄った。

〔どうやって?〕

 銀のドラゴンは眉に皺を寄せた。

〔呼ばれたの。けれど、体がこの世に存在しないかった。ドンテが体を作ってくれた〕

 佳子は当然であるかのようにさらりと言った。木庭は俺たちからだいぶ離れて、何か捜し物をしている。しばらくの間、陶器のようなものがぶつかり合う音だけがその場を埋めつくした。

〔心は広いわ。この体が作られたもので、魂が植えつけられたものなら…、この姿は偽物なのよね?〕

 青い目をしたドラゴンは俺の腕から佳子を見下ろす格好で尋ねた。俺は彼女等にかける言葉もなく、その場につっ立っていることしかできない。

 今、目の前にはドラゴンが存在している。それを考えるだけで精一杯なのに、彼らの姿が偽物であるなど、考えるだけで疲れがどっと押し寄せる。自分の存在さえ偽物であるかもしれないのに。

〔私たちは共存者の中の番人。ドラゴンという名の存在よ〕

 彼女の答えに銀のドラゴンは何か言いたげに口を開いたが、それをやめて俺の腕に蹲った。一方、木庭は未だに捜し物を見つけられずにガサガサと物音を立てている。

「ごめん、骨格がないみたい。ドンテに聞くのが一番なんだけど…、どうしたもんかね」

 木庭は向こうの方で頭を掻きながら、眉を潜めた。

 ここで作られるドラゴンは赤土から作られている。詳しくは分からない。

 陶器のような過程で制作されるわけだが、ドンテはドラゴンとその骨格を作り、それら2体を残して置いているらしい。

 存在はないものの、骨格は分身にあたいする。その骨から牙を抜いてペンダントにしたり、髪飾りにしたりとさまざまだが、どの場合でも共存者の鼓動が伝わるよう、身につけなければならない。

「骨格がないんじゃ、本体から抜くしかないな」

 ぽつりと囁いた木庭の言葉に銀のドラゴンは目を丸くした。彼女は俺の腕の中で小刻みに首を横に振り、身震いをしてみせる。

「じゃあ、噛ませたら?木庭みたいに」

 俺の言葉に銀のドラゴンはひぃっと息を吸って、目を見開いた。

「私は別にかまわないけど…。佳子さんはどう思う?」

〔彼に冗談は通じない、って言ったでしょう。拓磨さんが言ったことですもの。私には何とも言えませんわ〕

 佳子の答えにうーんと唸り、木庭は髪の毛を掻き上げた。

〔この私がリトヴィノフを噛むというの!?〕

 銀のドラゴンは唸った。

「噛むの」

 俺は当然のように彼女に言った。それを聞いて、

〔いくら何でもひどいわ!リトヴィノフ、他に手が無いか考えるのよ!〕

 と、さらに激しく唸った。

「馬鹿だからわからない」

 今思えば、なんてことを口にしてるんだ、って感じだな。

 俺は彼女をからかって言う。すると、

〔そう…、前言撤回よ!リトヴィノフはバカだわ!!〕

 と咆号した。


 俺たちは船から降りて、陸に上がった。振り替えると海がどこまでも青かった。たたずむ船は優雅な身成りをし、観勒を見せている。そして、視界を戻してみると見渡すかぎり、砂漠地帯が広がっていた。

 死んだ土地。草木は枯れ、岩は触れると崩れてしまう。生きものの姿は見られず、海にさえ見られなかった。

 この場所は孤独感が一気に身に迫る、そんな雰囲気を持っていた。何もない死んだ土地。

 俺はぐっと拳を握り締めた。

「さあ、行こうか」

 木庭は船に残った者たちに向かって、三日経って戻らない場合はドラゴンを飛ばすよう指示を出した。ニトとニロは大きく手を振り、ドンテは俺を静かに見つめていた。マンサは腕だけを顕にし、少し控えめに手を振る。

「ここから行けば、二時間ほどで着くだろう」

 木庭は目を細め、遠くを見た。

「そんなに早く着けるの?」

 俺は五十粁あると聞いたために、驚いて彼に尋ねた。

「もう、いい歳だからね。徒歩では絶対行きたくない」

 彼の言葉にも驚いたが、彼が手にしていたものに更に俺は驚いた。彼の手には骨が持たれていた。どこの骨で誰の物であるかは知らないが、それは古く黒ずんでやけに乾燥しているように見えた。

「彼に乗って目的地に行くんだ」

 木庭はそう言って、骨をそこらの地面に投げ捨てた。

「何してんの?」

 俺がそう言うと彼は見ていなさいと一言、言っただけだった。

【アーシュア、シードル】

 木庭は呟くようにそう言うと、地面に捨てられた骨が地面に吸い込まれるようになくなり、終には俺の視界から消えた。

「彼はシードル。獰猛なライオンザルだが、こっちがボスだと解らせればかわいいもんだよ」

 木庭の言葉に答えるように、乾燥した地面から片腕が突き出した。黒い毛に覆われた腕は勇ましいほどに逞しい。爪は分厚く、先が少し湾曲している。現われたのは頭部がライオンで本体が猿のような獣だった。タテガミは黒く、顔と尾は血にも似た深紅の色をしていた。四足歩行なのか二足歩行なのかよく解らない格好をしている。

「これに…乗るの…?」

 俺は方眉をぴくりと動かした。

「いやか?じゃあ、私は彼に乗るから、リトヴィノフはマリンに乗りなさい」

 木庭にそう言われ、早速言葉を教わった。

 先程木庭が口にした言葉は、僕を呼び覚ますためのある種の言葉らしい。

「名前の部分をマリンに代えて呼び出すといい」

 ドンテの時と同じように彼に言われるがまま言葉を口にした。

【アーシュア、マリン】

 俺がそう言い終えたとき、木庭が懐中から白っぽい骨を出して地面に投げ捨てた。投げ捨てられた骨は先程と同じように消えていく。そして、現われたのは一頭の馬。濃い茶色の馬は嘶きながら、地面から勢い良く這い出てきた。

 砂をまきあげる姿に圧倒され、俺は一歩後ろに下がる。

 馬の目は赤く、口元には牙が見られる。すると、もう一体の首が地面から這い出し、先程の馬と並んで嘶いた。二つの首は一つの体につづき、尾は二本あった。ようやく馬の全身が露になり、足が六本あることがわかった。

「これに…乗るの…?」

 どう、この複雑な気持ちを表現しようか。

「あまり文句を言うとマリンが怒る。わりとナーヴァスなんだ」

 予め用意しておいた鞍をシードルとマリンに付け、木庭の手を借りながら、俺は馬の背に乗った。マリンの背筋が足を踏み代えるたびにわかる。

 二人(?)の滑らかな体毛は、日の光を受けて瑞々しく輝いていた。

 俺はあの村を出てからというもの、初めて世界の広さを知り、数知れない生物が存在することを身を持って体験した。そんな彼らに出会った時、いつも思うのは生きている、ということだった。

 誰もが産まれることを許され、生きることを余儀なくされる。この世に産まれたことを何度憎んだだろうか。死を何度望んだだろうか。しかし、誰かは俺を生かし、もう一度産まれることを許したのだ。

 しかし、この土地を見つめていると悪臭が自然と俺の脳裏に過る。

 あの甘いような、果実が腐る香りの。そして鼻を突いた黴臭く乾燥した匂いの。吐き気が込み上げ、視界が歪んむ。腸が焼かれるように熱い。あの炎。あの声。あの顔。過ぎ去った出来事が俺を押し潰す。決して忘れることはない。忘れることではないのだと。

〔リトヴィノフ、私が傍にいるから。どうか…〕

 彼女の一言で心は撫でられた。一息於いて彼女にありがとう、と言って前を向いた。そのうち忘れる。今は十分な時間が必要なだけだ。

第十章

「そんなにとろとろ歩いていたら日が暮れるよ。駆け足、駆け足」

 木庭がそう言うとマリンは歩調を早めた。木庭の背中を見つめながら、俺は物憂げに父親を思い出す。あの幸福に歪んだ微笑みは俺の中の憎しみに手を貸していた。いけない。あれは父親などではない。

 木庭が今の自分を支えてくれるはずの人だと、仲間が支えてくれるはずだ、と。過去は過去でしかないことは解っている。記憶の存在が煙たかった。

「朝食はどうだった?」

 木庭は体を仰け反らせ、俺を見た。

 今朝、俺が目覚めて食卓に付いたときにはすでにテーブルの上に朝食があった。ベーコンやスクランブルエッグ、さまざまなパンにフルーツ、サラダ。さらにはケーキやデザートがあり、バイキング法式に並べてあるのだ。

 初めてその食事を目にしたときは、多過ぎはしないかと感じたが、食事を終えた頃には不思議とすべて消えている。誰もが腹八分目。

 おかしなくらいに計算された食事の量は、ポーナの性格からだろうか。

「美味しかったよ。吐かなかった」

 俺がそう言うと彼はそうだろう、と微笑んだ。

「彼女の特製スープを飲めば恐いものなしだからな」

 その通りだ。彼女のスープは特製の中の特性だった。

 ふと前方にとぼとぼと歩く人影が見えた。彼女は振り向いて、

「遅いんだよ。お前ら」

 と白けた目を向けた。

「寝坊か?あ?」

 ポーナは歩きながら、木庭に言った。

「朝食、美味しかったよ」

 木庭はにっこりと優しく微笑み、彼女に焦げ茶色の骨を手渡した。

「当然だろ」

 合い言葉のようにも聞こえるその言葉は彼女の性格上、言わせまいとはできないだろう。

 俺は木庭の後ろに隠れるようにマリンに呼び掛けた。

「何してんだよ、リトヴィノフ」

 途端に彼女にそう言われ、俺は驚いて落馬しそうになった。そして、マリンもいくらかたじろいだ。

「ごめんな。あんな風に言うつもりなかったんだ」

 ポーナは俺を見上げる格好で話した。突然的な投げ掛けに対応できず、俺はその場で固まった。

「どう思うよ?こんな仲間をよ」

 彼女は俺の傍に近寄り、マリンの背に肘を付いた。ずっと彼女に会った時のために何かしらの言葉を考えていたつもりだったが、それは結局つもりだったらしい。

 何よりそれが馬鹿馬鹿しかった。

「仲間だと思うよ、俺は」

 これじゃあ鸚鵡返しだ、と俺が笑うと、

「それでいい。それだけでいい」

 と、彼女は軽く微笑んだ。その時、一瞬にして胸の蟠りが消えた。

 銀のドラゴンの翼がふと俺の頬を撫でる。ポーナから目を離し、前方に目を向けると歪な雲がある一定の方向に流れていた。

【ナカレ】

 突如、ポーナの口から言葉が導きだされた。その言葉は短く、力強い。

 声のするほうに目をやるとポーナが持っていた骨を地面に投げ捨て、下を見つめているところだった。

「ポーナはどんなのに乗るの?」

 俺が訝しげに尋ねると、

「普通の馬だよ」

 素っ気なく返答が返ってきた。その時、マリンの足元で何かが蠢いているのがちらりと見えた。馬の嘶きが聞こえる。

 まさか、本当に普通なのだろうか。

 俺はマリンの足元を見ようとして体を仰け反らせ、下の方に目をやった。

 白馬だ。翼や角が付いているわけでもなく、違う動物と結合されているわけでもない。ただの白い馬だった。

「ずるいな…」

 俺がそう呟くと、マリンが飛び上がった。俺は振り落とされるのを必死で堪える。ポーナは大口を開けて笑った。

「かわいそうになぁ、マリン!リトヴィノフはお前が嫌いなんだそうだ」

「っち…違うよ!そんなこと言ってないから!」

 俺がそう弁解してもマリンは激しく暴れ回った。

「本当に日が暮れるよ。早く」

 先を行っていた木庭が痺れを切らせて言った。俺はマリンに振り回されながら進み、ポーナはナカレと呼ばれた普通の白馬にまたがった。

 遠くの方に村らしき影が、砂煙の向こうに見える。

 静かに佇み、静かに騒ぎ、静かに怯え、静かに消える。

 風に揺れる枯れた草木は根から抜けて飛んでいく。

 それが死んだ土地のルール。


 子供の死体が山のように積み重ねられ、その山の頂上には無数に大人の生首が置かれた。生きる意味を持たなかった存在。

『さぁ、私のことを怨んで死ね。一欠片の良心もいらない』

 男はある首なしの死体に片足を乗せて、微笑んだ。

 足元では死体があらぬ方向に曲がった腕や足をひくつかせている。ふと男の手元に目をやると、絶叫した表情のまま残る生首が持たれていた。生かされる意味のない存在。

 砂煙に頭をあげることができない。しかし、風は恐怖を確実に運んできた。

「血なまぐさい」

 ポーナの眉間に皺がよる。そう言いながら、彼女は俺の方を振り向いた。

「男がめそめそ泣くんじゃねぇよ」

 彼女はそう俺に言った。泣いているつもりはなかった。ただ無情に涙が溢れてしまう。

 まだ、砂煙がおさまらない中、俺たちは乗り物から降りた。

〔死んだ〕

 銀のドラゴンは俺の肩でぽつりと呟いた。

 人の気配はまるでない。しかし、その村はまだ熱気に包まれていた。俺たちの眼下には血で潤った地面がある。そして、乾いた土に馴染んでいないものもあった。

「遅くなって申し訳ない」

 木庭は地面を見つめて、ぽつりと呟いた。

「船長…、まだ奥に人がいるかも…」

 ポーナは木庭に恐る恐る尋ねた。少なくとも俺の目にはそう映った。

 すると彼はそうだな、と言ってまた地面を見つめる。俺はその時の彼を直視することができなかった。その顔はひどく悲哀に満ちていた。


「一欠片の良心もいらない」

 ポーナはそう言った。

「それがあいつの口癖だ」

 俺たちは二手に分かれて、生存者を探すことになった。ポーナと共に行くよう木庭に言われ、今は彼一人だ。

「政府はよ、無い物ねだりしてんだ。私も無い物ねだりしてるわけになるけど」

 俺は彼女の話を鼻を啜りながら聞いていた。

「あいつは力を求めて、鼠みたいに動き回りやがる。錬金術でスケルトンを作るわ、キメラをつくるわ、もうしたい放題」

 呆れたように長いため息をつきながら、彼女は血の水溜まりを大股で跨いだ。

「ドラゴンを欲しがってるって、ドンテから聞いた…」

 俺は危うく、その水溜まりで転倒しそうになり、ポーナの手を借りて跨いだ。

「あぁ。ドラゴンは私らの力だから…。でも、私は自分の力で親父を倒すんだ」

 彼女の目付きが鋭くなった気がした。

〔ドラゴンの存在とは何かしら…?私には解らないわ〕

 おそらくドラゴンは佳子の言葉を気にしているのだろう。ふと、そんなことを尋ねた。いや、そんなことと言ってしまっては誤解がある。

 自分の存在が何であるかを知るために、自分の腑甲斐なさに存在を求めることもあるだろう。あるいは、そんなことも気に止めず死んでいくこともあるだろう。

「お前はリトヴィノフを守るためにいろ。言っとくが、お前は…だ」

 きっぱりと彼女は言った。

〔あら、いい答え〕

 銀のドラゴンは煙をふっと吹いて、納得したように目を細めた。

「当然だろ。お前の存在はお前のものだ」

 ポーナは俺の方に目を向けた。

 いや、彼女は俺より向こう側に目を向けていた。

「伏せろ!」

 ポーナは俺の頭を勢い良く押さえ付ける。頭上で空気を切るような鋭い音がした。勢い余って、俺は地面に顔をつけてしまった。凝固しかけの血が俺の右頬と両手にへばりつく。

 また頭上で音がした。

 見上げて見ると、いくつもの矢が頭上を飛んでいた。矢の先には松明が灯され、村の家々を燃やしていく。

「立てっ、行くぞ!」

 ポーナは俺の腕を掴み、走りだした。

 矢の飛ぶ方と真逆の方向に。家々の裏路地を通り、勢いを止める事無く走った。

 突然、俺の背に誰かが負ぶさった。その拍子にポーナの手が離れ、俺は地面に滑り込むように突っ伏した。同時に銀のドラゴンも俺の肩から引き剥がされ、地面に放り出された。

〔リトヴィノフ!〕

「リトヴィノフ!」

 彼女らが急いで俺の方を振り向いた。

 俺の背には人間型のスケルトンが顎をガチガチと鳴らしている。

「くそっ…、ついてない」

 ポーナはそう言って、腰のベルトから短剣を取り出した。俺はその間、必死に体を捩らせた。

「私を誰だと思ってんだよっ!」

 彼女は素早くスケルトンに斬り掛かった。鈍い音に続いて、擦れた叫びが聞こえる。倒れていた俺の隣に頭が落ちてきた。

 ありゃあ、死ぬほどくせぇえんだ。

 俺の目の前には、頭蓋骨が半分潰れるように転がっていた。その途端、背に乗っていたスケルトンは動かなくなり、ついには地面に倒れこんだ。

「大丈夫か?」

 俺は彼女に引っ張り上げられ、立ち上がった。

「ありがとう…。でも、ごめん。囲まれちゃった…」

 辺りを見回すと骨だらけだった。家の屋根から見下ろす奴や、四方の路地からジリジリ迫ってくる奴らが俺たちを取り囲んだ。

「ついてないねぇ。ったく」

 ポーナは態勢を低くし、スケルトンが近づくのに構えた。と、突然俺たちの目の前に大きな壁が現われた。壁は辺りの建物を粉々にし、スケルトンをいくつか踏み潰した。

「お前っ…」

 それは俺のドラゴンだった。

〔お前じゃなくて、早く名前付けてよね!〕

 そう銀のドラゴンは言って、鋭く並んだ大きな牙の隙間から炎をちらつかせた。よく見ると、彼女の前歯の犬歯が一本なく、その隙間から炎が他の部分より多くでていた。

 かわいそう…。

〔乗って〕

 彼女は言った。

「へっ?」

 俺は情けない声をあげて尋ねた。するとドラゴンは、地面すれすれに頭を下げて、

〔私の背に乗るの〕

 と言った。彼女の青い目は驚くほど澄んでいた。

 俺は急いでドラゴンの頭によじ登り、背に腰掛けた。ゴツゴツした鱗が鋼鉄のように感じられる。

〔マヌロは?〕

 ドラゴンがポーナに尋ねた。

『船においてきた』

 そう、と言って銀のドラゴンはポーナを胸に抱いた。そして、大きな翼を広げ、つむじ風を起こしながら飛び立った。その風に巻き込まれたスケルトンは空中で粉々になり、地面にぼろぼろと舞い散った。

〔リトヴィノフは強くならなければならないわ。私はあなたを守るけど、あなたの手助けをするほうが好みよ〕

 銀のドラゴンはあの時と同じように息を吸い込み、火炎を吹き出した。地面は明るいオレンジ色になり、それがなくなる頃にはスケルトンの姿は跡形もなく消え去っていた。

〔何かしら?〕

 ドラゴンが首を傾げた。見ると、一体のスケルトンが立っていた。スケルトンではないかもしれない。髪があった。長く、大きくウェーブした白い髪。そして、水色のドレスに身を包んでいた。

「気にすんな。船長を探せ」

 ポーナは銀のドラゴンにそう言った。

〔見殺し〕

 ぼそりとドラゴンは呟いた。するとポーナは、

「そんなこと言うな。あいつは死なねぇよ」

 と素っ気ない。ふーん、とドラゴンは煙を吹いて旋回した。

 空から見る眼下の光景は、とても鮮やかな色をしていた。火の波が村を覆いつくし、火の粉が風に舞い上がる。

 人は見られなかった。

 血はおびただしい程あるのにも関わらず、人の姿はどこにもない。

〔殺戮〕

 またドラゴンが呟いた。こっちにきてからドラゴンはずっとこの調子だ。

「いいから、木庭を探して」

 俺がそう言うと、彼女はフンッと鼻を鳴らし、翼を広げてはばたいた。

 何が無駄だというのか。

 下を歩くことは到底不可能だろう。木庭もおそらく佳子にまたがっているに違いないと思い、俺は空を見回した。そして、ポーナも同じように辺りを見回した。

 無意識に眼下が目に入った。炎は勢いを弱めることもなく、唸り声を上げて燃えていた。家々は黒いシルエットとなり、辛うじて見える。

 その時、俺の目の前を白っぽいものが通過した。もう一度、それが通り過ぎる。それが、雪であることに気づくには時間が掛かった。

 先ほどまで燃え上がっていた村の火がすっと引いていく。そして村のある中心から波紋のように消火され、消えていく火を追い掛けるように白い霜が降りたった。

 見る見るうちに村は白銀の世界に包まれた。

〔お見事!〕

 ドラゴンは口をくわっと大きく開けた。

〔私は炎しか吹けない〕

 いくらか羨ましげに彼女は唸った。彼女が何か話すたび、声が振動として伝わってくる。息をすれば、肺が膨らむことも感じられ、体温は俺より一回り高いようだ。

「それで十分だと思うけど?」

 俺が彼女の背で言うと、

〔自分で消すことができないわ。そして、彼女も自分のをものを消すことができない〕

 彼女は翼を広げた。ドラゴンがいう彼女は佳子のことだろう。

「じゃあ、いいじゃないか。そりゃ、欠けてるところだってあるよ。無い物ねだりはよくない」

 言ってみただけ、と言って彼女は首を横に振った。


 木庭は白きドラゴンを肩にに乗せ、霜の降りた路地を進んでいた。息が自然と白くなり、やがて空に消えていく。長いため息のあと、木庭は呟いた。

〈本当に申し訳ない…。今、足を進めている自分が恐ろしいくらいだ〉

 彼はまだ、哀しげに先を見ようとせず、少々俯きかげんだ。

〔恐れは誰にでもあるわ〕

 佳子は真直ぐに首をもたげて、木庭を見た。

〈そうだが…〉

 彼の頭がうなだれる。佳子はそんな彼の頬に翼を添えた。白い翼は柔らかく、しなやかだった。

〈きっとガーナは心を見失ってしまったのよ〉

 彼女の言葉を聞いて、木庭は顔をゆっくりと上げた。長い髪が顔に掛かり、よく表情が見えない。そして彼は、

〈マンサもね…〉

 と短く言った。懐かしい目を向けて、前を見た。

第十一章

『降ろせ!』

 ポーナがいきなりドラゴンの胸で暴れだした。

〔どうしたの?落ちてしまう〕

 彼女が驚いて尋ねると、

『ガーナが下にいんだよ!だから、早く降ろせ!投げ捨てろ!』

 と、さらに藻掻いた。彼女が何を言ってるのか今だに解らないままだが、彼女の言う言葉に意味はないとは思うはずもなかった。

 辺りを見渡す。

 白銀に包まれた眼下の片隅に火が昇っているのが、ふと見えた。

 村外れのある一角から、不気味な匂いが立ちこめた。

「殺戮…」

 俺は躊躇いながらも言葉を口に出した。

 そう、あの匂い。

 あの甘い、果実が腐るような香りの。

 俺の中でぶすり、と鈍い音がした。その瞬間、落胆と憎悪がぶつかり合う。

「降ろしてくれ…」

〔二人とも感情的になり過ぎよ。無理をしては駄目〕

 彼女は知っていたらしい。俺たちが憎むであろうヒトを。

「降ろすんだ!」

 自然と口調が荒くなった。

〔あなたは強くならなければならないわ〕

 ドラゴンは静かに言った。

〔リトヴィノフ、あなたは強くならなければならない〕

 そしてもう一度、彼女は繰り返した。

 銀のドラゴンは翼を畳んで降下した。

 俺の頭の中は赤一色。

 もう、無我夢中で何も考えられない。さらには殺戮の言葉だけが頭にこべり付き、俺の意識を掻き殴った。

 降下する先には炎がある。

 地面まであと十メートルという時、ポーナは空中に飛び出す。そして炎の中に突っ込んでいった。

『許さねぇっ!!』

 そう声が聞こえた直後、炎で彼女の姿が見えなくなった。

「ポーナ!」

 俺が炎の方に目を向けた時、青白く光る稲妻を見た。焦りに駆られ、額に汗が滲んだ。

「ポーナ!ポーナァ、大丈夫?」

 返事はない。地面に着地してすぐ、俺はドラゴンの背からひらりと飛び降り、炎の燃え上がるほうへ駆け出した。


『一欠片の良心もいらない、そう言っただろう』

 男は微笑んだ。彼の左腕には短剣が突き刺さっている。

『黙れ!このクソ野郎!!』

 ポーナの右腕には四方に伸びた火傷の傷が痛々しい。

 彼女は短剣をガーナの腕から引き抜き、

『恐れを知れ』

 と、男の額に短剣を突き立てた。


 俺の足を誰かが掴んだ。

「ついてない」

 俺はまた地面に突っ伏した。さらに誰かが俺の背に飛び乗る。

 重たくて…、臭い。

 尚も次々に何かが俺の背に乗っかってくる。

〔リトヴィノフ、これは手助けよ〕

 ドラゴンが遠くで唸り声を上げた。

 その直後、俺は仰向けに裏返された。見ると、周りにはスケルトンが数匹倒れている。しかし、また次々にスケルトンは現われた。

「でも…、どうすれば?」

 俺は素早く立ち上がり、襲い掛かるスケルトンから逃れた。

〔あなたは孤独を知っている。あなたは怒りを知っている。あなたにはやるべきことがあるの〕

 ドラゴンにスケルトンが集る。

 俺たちを取り囲むスケルトンは百を裕に越えていた。後ろには熟れた果実が朽ちている。

 忘れてしまったのか。俺が孤独だったことを。あの侮辱を。

 憎むだけでは何にもならない。守るものが何であるのか。生きる意味は何であるのか、を。

 俺の意識はスケルトンに移っていった。

 無関係。生と死は無関係。死のみが意味で生は無意味。

 彼らの声はよく解った。

 それがお前らだもんな。

【ハーミネドゥビナ!】

 稲妻が空気を切り裂くような乾いた爆音の直後、空気の擦れが摩擦を起こし、空気自身に発火した。

 何百ものスケルトンは一瞬のうちに灰になり、余韻の爆風にすべての灰は飛び散った。

 ドラゴンは翼を盾にし、爆風を凌いだ。燃やされた死体はもうそこにはない。

 一気に疲労が込み上げてくる。

『リトヴィノフ…か』

 ガーナは呟いた。

 そこにはポーナの姿はない。

 ふと、ガーナの傍に白髪の少女が近寄ってきた。彼女の水色のドレスにはいくらか返り血と思われる痕跡がついていた。

『マンサ…。木庭を仕留めたのかい?』

 優しく彼は言った。

『イイえ…。カレは私ヲ見捨てテ行ってシマッタわ…』

 彼女に表情はない。見られるのは鋼鉄の仮面だけ。

 少し錆びた間接をキュッと鳴らして、彼女は首をうなだれた。

『そうか…、可愛そうに。きっと彼はお前を愛してはいないのだよ』

 彼はまた、優しく言った。

『彼を恨みなさい。恨み殺しなさい。そうすれば、君は満足できるから』

 そうして、ガーナは空を見上げた。

 遥か彼方に三羽の鳥が飛んでいた。


〔私を置いて、結果が変化しましたか?〕

 青い鱗を纏ったドラゴンは静に言った。彼の背に乗っていた少女はどうしようもなく苦笑いを浮かべている。

 マヌロはポーナの火傷の跡を見て、馬鹿だと鼻を鳴らして言った。

『ごめん…。どうしてもこの手で奴を倒したかったんだよ…』

 ポーナはため息混じりに肩を落とした。

〔なら、手助けだけでもさせてください。でないと私の存在が解らなくなります〕

 彼はそう言って、身震いをした。マヌロは恐かったのだ。

 ポーナは小さく頷き、

『わかってるよ』

 と、目を閉じた。


 負傷者はポーナだけではない。俺は転んだ時に擦り傷を負ったが、銀のドラゴンは気に掛けていない様子だった。それよりも深手を負ったのは木庭だった。

「木庭!」

 船のある場所に着いた途端、俺は木庭に駆け寄った。

「何でもない…」

 彼はそう言って腹部の出血を押さえた。

「何でもない訳ないよ…、だって血が…」

 木庭は俺の方を向き、人差し指を立てて口元にやった。

 なぜ…。

 痛いさからだろうか、それとも熱さからだろうか。木庭の頬に汗が伝う。

「マンサは自分の部屋にいるから安心しなさい」

 ドンテはできるだけ早く、彼の元に歩み寄った。

「リトヴィノフ、私が怪我を負ったことはマンサには言わないでほしいんだ」

 ドンテに支えられながら木庭は言う。

 俺はその場に立ち尽くした。

「絶対に言うんじゃねーぞ。言ったら殺すからな」

 ポーナは横目で俺を睨み付けた。

「ポーナもわしに着いてきなさい」

 彼らは揃って船の中に入っていった。

「お前は何ともない?」

 俺は振り返って銀のドラゴンを見た。

〔人間ほど柔じゃない〕

 とドラゴンは微笑んだ。俺は彼女を肩に乗せ、船の中に入った。

「大丈夫だった?」

 船に入ってすぐ出会ったのは、今にも消えそうなマンサだった。驚いたことに、彼女が泣き叫ぶことはなかった。

「…うん。俺は擦り傷ばっかり作っちゃったけど、皆大丈夫だよ」

 妙な間を作ってしまった。彼女は何を思っているのだろう。

「何か悪い予感がしたの…。ただ、それだけ…」

 マンサはそう言って俺に背を向けた。俺は切ないような心の痛みを感じた。

「大丈夫。皆、何ともないから…」

 彼女は俺の方を向いて、困ったような笑顔を浮かべて消えていった。

 なんだかとても遣る瀬ない気分になった。

〔言っていい時もある、と覚えておきなさい。不幸を知らないことがプラスになるとは限らないの〕

 ドラゴンは小さく瞬きをした。

〔かと言って、何でも口にしては駄目〕

 全く、どっちなんだ、と思いつつもドラゴンの言葉に、俺は深く頷いた。

「でも彼女…、きっと何か察しがついてるよ」

 そうね、とドラゴンは俺の肩から飛び立った。

〔彼女の心が裂けたように感じられて、よく解らない〕

 俺たちは迷いながらも自分の部屋に帰った。

第一章

 俺は今日、炎を起こした。怒りや憎しみに任せて放ったものだが、その威力はドラゴンの息吹に匹敵するだろう。

 しかし、あの力を持った言葉は一体、何なのだろうか。古代語とはどういったものだろうか、と気になり始めた。

 そうだ、今度は図書室に行ってみよう。

 俺は勢いをつけ、ベットの上に飛び乗った。ベットのスプリングが悲痛そうにギシギシと鳴る。枕に顔を寄せると軽く電撃が走った。

 明日は打撲の跡がそこら中にできるかもしれない。打撲がなくとも擦り傷の後にできる痂の痒さに悩まされるだろう。どちらにしても軽傷だった。

 それにしても、なぜ木庭に佳子が付いていながら、腹部に怪我を負うのだろうか。

 マンサが本当は裏切り者だ、とか。考えられなくもない。

 しかし、少なくとも木庭に傷を負わせることはできないだろう。誰か政府と仲の良い奴に今日、あの村に行くことを告げ口したのだろうか。

 それに…、

〔リトヴィノフ!〕

 ドラゴンは怒鳴った。俺は驚いて体を一瞬、引くつかせた。

〔あなたがそんな風でどうするの!ポーナとの件は?何のための仲間?よく考えなさい!〕

 銀のドラゴンは俺から視線を逸らさない。

 俺も頑張って彼女の目を見続けようとしたが、耐えられなくなり、首をうなだれた。

「無理だよ…。疑うのも無理ないじゃないか。信じるほうが疑わしいよ」

 ポーナとの件で俺の信頼がなくなるのを恐れていたことは頭の片隅にあったが、やはり気持ちに嘘はつけない。

〔確かに難しいことだと思うわ。でも信じなければ、あなたが疑われるのよ〕

 彼女は先程より口調を和らげて言った。

「お前はどうなんだよ…」

 不意に逃げてみた。

〔私はリトヴィノフだけを信じてる。これが変わることはない。他は何にも思わないわ。心が読める分、大体のことが解るから〕

 信じる、信じないは私には関係ないわ、とドラゴンは言った。

「お前が特別だとは思わないよ」

 自然と笑みが零れた。ドラゴンと話す時が、唯一の安らぎだった。

 この魔法のような存在は何なのであろうか。

〔あら、残念!私がこんなに思ってるのに〕

 彼女もそう言ってクスクスと笑った。

 その時、コンコンと扉が鳴った。

「あの…」

 扉が開き、か細い声が聞こえた。

「お邪魔でしたか…?」

 見るとマンサが扉の隙間から顔を少し出していた。

 今にも消えそうな姿で扉の外側がいくらか見える。見えるといっても木製の壁と少しカーブを描く廊下だけだ。

「いや、別に」

 俺は横になっていた体を起こして彼女の方を見た。

 よく見ると彼女の髪の毛は変に癖がつき、あちらこちらに髪の毛が跳ね、ウェーブを描いている。

〔そんなことないわ、お取り込み中よ〕

 ドラゴンはそう言って俺の膝によじ登り、俺の鼻の頭に唇(!?)を寄せた。

「何してんだよっ」

 俺は慌てふためき、銀のドラゴンを自分から引き剥がして、布団の中に包めた。

 ただ触れたという感覚でしかなかったが、俺の中で恥ずかしさが一気に立ちこめる。

「ごめんなさい…、失礼しました…」

 子供にとっては明らかにお取り込み中だった。

 まあ、近ごろのガキには負けるけどな。

 マンサはそう言い残して慎重に扉を閉めた。

「ちょっと!用があるんじゃないの?」

 俺は引き止めようと努めたが、彼女の気配はどんどん遠くなっていった。

〔あーあぁ。行っちゃったわ〕

 布団に包まっていたドラゴンがひょっこりと顔を出し、顔を綻ばせている。

 そんな彼女を見て、

「俺に別の疑いが掛かったよ、今」

 と、俺はぼそぼそと呟いた。


 木庭はうめき声を必死に堪えて医療用の部屋に入った。

 マンサに嗅覚がないかぎり、彼女には気付かれないだろう。

 木庭はドンテとポーナの肩を借り、寝台とも似つかないようなベットに横たわった。

 赤黒い血液が彼の腹部からじわじわと溢れ返るのをやめない。彼の腹部には腹を横切るように直線的な傷が作られていた。傷に歪みがないところから、かなりの勢いで刃物を切り付けられたと見てまず間違いない。

 ドンテは鋏で木庭の傷にまとわり付いた服の部分だけを残すように切り、彼の上半身を裸にした。

〈マンサを捨てる気にはなれんのか?今のマンサはお前を殺そうとしているんじゃぞ〉

 服をゴミ袋のなかに入れながら、ドンテは木庭の方を見た。

 すると、息荒く彼は言う。

〈捨てる?…私には…できないな…〉

 続けて、木庭は言う。

〈彼女はまだ心を失った…ままなんだ。私が彼女の心を取り戻すと…約束したんだよ…〉

 ため息をつきながら、老人は傷の手当てをはじめた。

 ピンセットで切り残しておいた服をゆっくりと畳むように捲っていく。凝固しかけの血が服にくっつき、木庭の腹部の傷周りをひっぱり上げる。

 木庭は呻いた。

 ポーナはすかさずガーゼを手に取り、彼の傷口を止血した。しかし、ガーゼは瞬時に赤く染まり、すぐに新しいものが必要になった。

【ピンは?】

 ポーナは妙な言葉で尋ねた。

〈わしの足にくっついとるわ〉

 一気にドンテは木庭の服を剥がした。ポーナは慌ててガーゼを傷にあてる。

〈ピン。お前の力を貸してほしい〉

 彼は自分の足に巻き付いたトカゲに話しかけた。

〔ピンにそんな力ない…。傷、大き過ぎる…〕

 ピンは今にも消えそうな声を出した。ドンテは自分の足から彼を外し、自分の目の高さまで抱き上げた。

〈わしを助けてほしいんじゃ〉

 彼はドラゴンを見つめた。

 ピンは木庭の傍らに下ろされ、老人を見上げた。

〈お願いだ〉

 彼の言葉を背後にピンは泣きじゃくった。

 咆喉とも似付かぬ、母親を探す子のように彼は泣きじゃくった。

 ドラゴンの目から涙が溢れ、頬を伝う事無く木庭の傷の上に落ちた。

 途端に木庭は前にも増して、うめき声をあげ、体を仰け反らせた。

 傷口から白い煙が立ち昇り、ピンはそれに退いた。

〔やだ…、父さん死んじゃやだ…〕

〈お前の力は衰えはしない〉

 ドンテは優しく声をかけた。

 ピンが咆号すると、忽ち彼の目から大粒の涙が幾度も落ち、木庭の傷を癒していった。


 母フェニックスは翼をもたずし、この世に生まれた。


 そしてドラゴンに助けられ、ピンが生まれた。

 ピンはこの船で唯一、骨格をもたないドラゴンだった。そのことを数日後に俺はドンテから聞いた。

『傷が塞がる』

 ポーナはゆっくりとガーゼを避ける。木庭の腹部の傷は端から徐々に塞がっていった。そして、完全に傷が塞がりガーゼで血を拭き取ると、傷跡もなく消え去っていた。

 最後に一粒、涙が彼の腹部に落ちると木庭は深いため息をついた。

〈ピンをこれ以上泣かせてはならんぞ〉

 ドンテは木庭の汗を拭ってやった。

〈努力するよ…〉

 そう言って、木庭はゆっくりと身を起こした。

 木庭がピンの頭を撫でるとありがとう、と言ってドラゴンを抱き上げた。

 翼を持たぬドラゴンは木庭の腕にすっぽりと填まった。

〈ありがとう〉

 木庭はもう一度そう言って、ドンテにピンを引き渡した。

 ピンは駄々を捏ね、もっと抱いてほしいと手足をじたばたさせる。

〈おいおい、わしがお前を育てる父親だぞ〉

 ドンテは困ったように眉を寄せた。気分のよくなった木庭は髪を掻き上げ、クスクスと笑った。

『ポーナ』

 笑い終わりに木庭は言った。

『早く腕の火傷を治療してもらいなさい』

 一瞬、彼に何を言われるのかと躊躇ったが、ポーナは頷いてその言葉を承諾した。

第二章

 古代語。

 それは力を持たない言葉。すでに死んだ言葉だった。

 俺は図書室に置かれていたあらゆる本を読み漁り、文字を書いた。そして同時に他国の言葉を話せるようになり、船員が話す言葉も分かるようになった。

 図書室にある本は魔界と俺たちの住むこの世界との記述が大半で、古代とはまた違っていた。

 古代には人間と他の種族がこの世界で共存していたことが歴史として語り継がれている。種族の中でも秀でていた人間が生き残った、ただそれだけの歴史。

 以前、ちらりとポーナとの会話に魔界の話は出ていた。

 しかし、魔界はこの世界には存在しない、また別の世界にあると言われている。魔界には異形のものたちが存在し、はっきりとした形を持たないとも言われている。

 人間は彼ら、異形の世界を侵略しようと試みたと本に記されていた。そして、彼らも人間界に侵略を試みたが、両者とも互角に争いを繰り返すのみとなった。

 その争いの事をミシェルヴィエの戦いといい、この戦いこそが両者の共存を強制した神の戦いだとした。

〔今も争いはあるのかしらね?〕

 銀のドラゴンは興味津々に尋ねてきた。俺は本を閉じ、彼女の方を見た。

「わからない。でも人が異形に関わっていようとしているとは思うよ。俺たちがそれだから」

 異国に憧れを持つように魔界にも憧れを抱いたのだろうか。

「お前は魔界について何も知らないの?」

 俺は閉じた本の上にドラゴンを置いた。

 この船で暮らし初めて一ヵ月が過ぎた。俺たちは世界各地の村を訪れ、政府の被害にあい、親を亡くした子供達を保護した。

 これで船乗員は九名+六匹+一人となった。

〔知らないと言えば嘘になる。でも、まだ話す時ではないわ〕

 少し気難しそうに彼女は眉を寄せた。

「もっと勉強しろ、と…言いたいのか?」

 俺は彼女の皮膜の翼を開閉させながら言った。

〔ご名答!〕

 ドラゴンはそう言って炎を吹き、俺の前髪を焦がした。

 こういった彼女の行動にはもう慣れた。俺は前髪が減った、と悪態をついて、前髪を引っ張った。先のほうがバネのように縮れている。

〔魔界はね、本の通り別の世界にあるの。形を持たないものもいるけど、大半そうではないわ。ちゃんとした姿を持っているのよ〕
 
彼女はゆっくりと話し始めた。俺を見ている青い目は図書室のランプの明かりで朱色に輝いている。

「他には?」

 俺は前髪から手を離さず、彼女の方を見た。

〔そうねぇ…。魔界の大半は森かしら。アドルという、言わば動物族はそこで暮らしているわ。それからヒルトープルね。彼らは人そっくりだわ。だから、人間みたいに家を建てたり、武器を作ったりしてる。最も弱い異形だからよ〕

 ふーん、と俺は相づちをうって興味なさ気に欠伸をした。

「政府がどんなことを人々にしているかは大体わかった…。でも、なんでそんなことをする必要があるんだ?ドラゴンを欲しがってるとも聞いたし…」

 ドンテは何か不思議な雰囲気を持っているように思えた。彼の顔の傷や片足がないことなど、彼は一際謎の多い船員だった。

 まあ、全員謎だらけだったけど…。

〔政府は魔界を探しているんだわ、きっと…。私たちドラゴンはあなたたちの心の門番よ、だからドラゴンを欲しがる〕

 ドラゴンは一点を見つめたまま独り言のように言った。

「魔界はみんなの心に?」

 俺は続けた。

「心は魔界に繋がってるんだね、そうだろ?」

 青い小さな目がこちらを向いた。

 怒鳴った訳ではない、ただ静かに聞いただけなのに銀のドラゴンの目は潤んでいる。

 俺にはそう見えた。見えただけなのかもしれない。

〔それ以上、言えない。答えられない〕

 沈黙の後、普段と変わらない調子で彼女はぶっきら棒に言った。

「お前はお喋りが過ぎるのかもしれないな」

 頭を勢い良く撫で付けると彼女はうるさい、と唸り声をあげた。

 平穏とはいわないが、それなりに充実した日々が通り過ぎるように経っていった。特にこれといった大事件もなく、政府の足取りも目立たなくなってきている。政府が出した調査隊に何度か出くわしたが、今では船の雑用係をしている立派な乗組員だ。


 俺は相変わらず図書室に入り浸り、あらゆる言語の読み書きを習得しようと努めていた。

 最近、口が悪くなったと銀のドラゴンに言われた。

 まあ、そうかもしれない。

 と、いうのも近頃はポーナと話す機会が増えたからだろう。船に乗り込んで一年が経つ頃、俺は木庭にコックの助手を任されたのだ。

 これにもまた理由がある。が、それは次に話すさ。

『ポーナ、ぴょぷそんてぃ作めよ』

 ガキ共、俺はただのあほなガキじゃねぇぜ。他国語喋ってんだからよ。

 偉大だ。

『いい加減、喋るのやめれば。殺されるのが落ちだぞ』

 ポーナはポタージュのようなスープを鍋に入れ、火を点けた。

『ぴょぷそんてぃ!作め!』

 俺が覚えはじめのドイツ語で面白げに叫ぶと、前方からフライパンが飛んできた。

 俺はひらりとフライパンを避ける。背後でゴインッと鐘が鳴り響いた。

『材料ねぇんだよ、クソ野郎っ!』

 次にポーナは果物ナイフを手に取り、嘲笑う俺にめがけて、投げた。

 見事に俺の太股に突き刺さる。

「こんなんでクタバルわけねぇだろ!ババアっ!」

 太股に突き刺さったナイフを引き抜き、ポーナに向かってそれをちらつかせながら逃げ回った。

「うるせぇっ、ガキ!脳みそ食うぞ!」

 ポーナが吠える。彼女は炊事場にあったスプーンを手に取り、台所から出ようとしていた俺に投げ付けてくる。

「やめなさい、お前たちっ!」

 途端に鈍い音がした。見ると様子を見にきたのだろう木庭の肩にずぶり、とスプーンが奇麗に刺さっている。

 そう、今この船は乗員の激増により飢饉に陥っていたのだ。

 今までなんとか養ってきたが、もう食は底を突いた。

 ポーナは料理ができない、と圧迫感を感じ、ストレスが積もりに積もっている。近いうちに貿易港に立ち寄らなければならない。

「お前たちはピンを何じゃと思っとる!」

 ドンテまでも最近口調が荒い。そして、ピンは前にも増して泣くことが多くなった。

〔馬鹿な人間ね〕

 銀のドラゴンの言葉につづいて、

〔明日には港に着くでしょう。我慢してください〕

 マヌロは眉を上げため息ながらに言った。

〔これ以上騒がしくしないで、おとなしく自分の部屋にこもっていたらいいじゃない。どうせ、動いても腹が減るだけでしょ〕

 ドラゴンはぴしゃりと言って、俺の肩にとまった。

〔口が悪くなっても歪まいで〕

 彼女はぼそりと呟いた。

 乗員達はそれぞれ、悪態をつきながら自分の部屋へ戻っていく。


 俺の部屋は図書室になっていた。この前の部屋は雑用係のために引き渡し、今は本に囲まれながら生活している。

「食物を買うのにお金って奴がいるらしいけど…、お金って何?」

 部屋で本を無造作に捲りながら、俺はポーナに話し掛けた。

「品物を買うときの代償だ」

 短く言葉を切り、彼女は持ってきたマグカップを差し出す。

「ほら、飲め」

 ポーナは右手でそれを差しだし、左手で自分のマグカップを啜った。

 普段からポーナの料理を食べていたのだが、不思議とマグカップを差し出されると、口元が痙攣したように引きつってしまう。

 そんな俺の顔を見て、

「普通のスープだよ。変な顔してんじゃねぇ」

と、強引に持っていたマグカップを俺の胸に突き付けられた。

 銀のドラゴンは俺の肩に攀じ登り、その場所からマグカップの中身に
目をやり、次にポーナの顔を見た。

〔お金を使って買い物をしに行くのね!〕

 そう言いながら、ドラゴンは小さな舌を覗かせた。すると、啜っていたマグカップを離して、

「生憎、船に金はない」

 と、ポーナは白けた目を向けてそう言った。

「じゃあ、どうやって食物買うんだよ?」

 俺はポーナからマグカップを恐る恐る受け取りながら、中身を見る。いい香りのするポタージュのようなものだった。

 いや、まだ解らない。

「働くのさ」

 また、彼女はマグカップを傾け、一気に飲み干した。それを見ていた俺は、彼女の様子を見ながら話す。

「…どこで?俺たちは解放されたんだろ?」

「次の港だ…。そんなに厳しいもんじゃねぇから心配すんな」

 彼女の言う働くものがどんなものなのかは、さっぱり見当がつかない。

〔リトヴィノフ、私にくれるでしょ?〕

 ドラゴンは俺の肩で足踏みをしながら、長い首を伸ばしてマグカップに顔を近付けた。

「どのくらい、その港で働くの?」

 そう俺が言い終えた後、手に持っているマグカップにポーナの視線が注がれているのに気が付いた。

「一ヵ月も経てば、十分金は集まる。そのくらいだ」

 彼女の返事にふーん、と軽く相づちをうちながら、一気にスープを飲み干そうと急いでマグカップを傾けた。途端、顔面が何かに当たった。一瞬マグカップが視界から消え、危うく手から滑り落ちそうになる。

「何?」

 ドラゴンは翼を広げて俺の視界を阻み、マグカップを傾けられないようにカップの飲み口に噛み付いていた。

〔一度ぐらいくれてもいいじゃない〕

 ドラゴンはマグカップの飲み口に噛み付いたまま唸った。

 全部飲み干してほしいとは口が裂けても言わないが、ドラゴンが少しでもスープの量を減らしてくれればと思い、俺は彼女にスープのカップを譲った。

 その時のポーナの視線は本に向けられていた。

〔こんなに美味しいものをくれないなんて、リトヴィノフはひどいわ!〕

 結局彼女は三口程飲んだだけだった。先程と全く量は変わらない。

 一分ほどドラゴンと取り留めのない会話の後、ドラゴンに異常がないことを確かめ、俺はカップを傾けた。

『バーカ』

 ポーナの笑い声を聞き、俺はぎょっとして咄嗟に駆け出した。

第三章

 ポーナの笑い声を聞き、俺はぎょっとして咄嗟に駆け出した。

「リトー、急いでどこ行くの?」

 途中、双子に出くわすが無視をして、そのままその場を去った。

「ニト!駆けっこだってさ!」

 ニトとニロは揃って俺の後を追ってくる。

 二人の足音を聞きつつ、俺は甲板に通じる廊下を猛スピードで駆け抜けた。

「付いてくんじゃねぇっ!」

 とは言うものの、結局何にもなかったんだよな、これが。

 ポーナのいじめ癖は一生直らないらしい。

 そんな彼女に反抗すべく、俺は口調を悪くし始めた訳だが…。


 扉が開かれ、眩しい光が飛び込んできた。何度見ても解放感のある景色。無限に広がるように感じられるこの世界は、俺にとって広すぎるように感じられる。その解放感の片隅には不安が滞りになく息を潜めていた。

「「追いついたっ!」」

 不意にドンッと背中を突かれた。

「もう終わりなの?もっと遊ぼうよ!」

 ニロは微笑みながら、俺に言った。

 この双子は俺がここに来たときから、あまり変わっていない気がする。気のせいだろうか。今まで彼らに特別、目を向けたことは無かったが、最近自分自身に感じられる変化と共に、彼らの変化が気になった。

「わかった、わかったよ。何して遊ぶ?」

 俺はまだ息が上がったまま彼らに話した。すると、双子は揃って、

「「隠れんぼ!」」

 と、俺に向かって突進してきた。

 俺は尻餅をついて、尾骨を傷める。

「僕が悪魔になる!」

 ニロは右手を高く上げ、名乗り出た。僕がその次、とニトが続けて言ったので、俺とニトは早速隠れようと船内に戻った。

 双子のどちらが兄か、と聞かれるとニトになる。ニトはニロより多少控えめな雰囲気を持っていた。

 それに比べてニロは勝手気儘に我が道を進んでいる。彼の顔にはそばかすがあり、俺はそれで双子を見分けていた。

 今も変わらないだろう。

 緩やかなカーブを描いた廊下に並ぶ扉を適当に開け、どこか見つからない場所はないかと歩き回った。

 雑用の部屋。

 つまり元俺の部屋には背のひょろ長い、白髪の若い男が二人掛けのソファーを陣取り、横になっていた。

 ヤグというその男は政府の調査隊だったわけだが、その役割に似合わないほど、虚ろな表情をしている。まるで、朝起きたての寝呆けたような面構えだ。

「どーしました?旦那」

 声も寝起きのようなしわがれた声だった。

 その男の他に太った男と気高いブロンドの女が、不機嫌そうにこちらを見ている。

「遊んでるだけ。どこか見つからなさそうな場所はない?」

 俺はヤグにそう尋ねた。

 雑用の中でもヤグは親しみやすかった。太ったミハエルマルクと話しても、食に飢えている自分がどのように孤独かを永遠に聞かされるだけで会話にならない。

 聞いているうちに寝てしまうことも少なくなかった。それから、気高いブロンドのモリーンは自分の容貌の虜で、俺から話し掛けることはまず無い。

 たまに今日の自分はどうか、と尋ねてくることがあるかないか、その程度だった。

 そんな彼らとは違い、深くも浅くも話してくれるヤグに対してはとにかく自分と親近感が湧いた。

 ただ、政府のことについてはどんな情報であっても漏らしはしないがな。

 もし、機密事項を流してしまいそうになれば彼らは自殺を試みるだろう。もしくは船員の皆殺しの線も捨てることはできない。

 …。

 それらを考えると、俺たちが政府について聞き出そうとしたのは、彼らを捕らえた時のみ。それ以降の尋問はできなかった。

 尋問といっても、かなり大間かな内容だった。俺たちは非政府組織であるため、易々と人を殺すことはできない。そのため、名前や政府の状況、ドラゴンについての認識レベルなどを尋ねるくらいで、木庭は話したくなければ服従を誓い、仲間に手を出すな、と言うだけだった。

 スケルトンやキメラは別だが、人を殺すことは許されない。

 ポーナがガーナを殺そうとするのは例外に近いらしい。

 彼女は目には目を歯には歯をという同害復讐の心構えであるためにどうしようもない。しかし、木庭はたとえ憎しみあってでも共存を望んでいた。

  ガーナだけの死で終わる出来事ならばそれでいいのかもしれない。しかし…、と俺はまだどういった決意を固めたらいいのか、解らないままだった。

 ヤグについて言えるのは、優秀な人材であること。他の二人にも言える。

 船に三人が襲撃してきた時、ヤグとポーナの乱闘は見ものだった。獣のような目を向け、冷淡に余裕綽々の趣きでポーナを殺そうとするヤグの表情は、忘れることはできない。暫く互角に戦っていたが、ポーナはそんな彼に押されて、ついに魔界の言葉を口にした。空砲のような音が響き渡り、ヤグはその爆破音に怯んだ。

 そこを木庭に捕まえられた。

 今の彼にはその趣きは見られない。彼はここに来て、何か変わったのだろうか。

「ポーナ嬢の部屋はどうだ?なかなかいい隠れ場所だと思うぞ」

 ヤグはオレもやりたいな、と静かに微笑んだ。

 確かに、ポーナの部屋にはあまり近づく者はいない。

 なぜかって?そりゃあ、ポーナの部屋だからということもあるが、何よりも幽霊がいるからだ。

「次は俺の代わりに双子と遊んでくれない?」

 少し困った顔をしながら俺が言うと、気前のいい返事が返ってきた。

「もちろん。順番が来たらオレを呼んで」

 必ずそうするよ、と言って俺は雑用の部屋を出た。こうして話せるのは何時までだろうと、不意に考えた。

 廊下を見回し、ニロがいないことを確かめて隣の部屋に駆け込んだ。

「ぎゃああああぁぁぁぁああ!」

 耳を塞ぐよりも彼女の口を塞ごうとして、空を切った俺の体は、床に勢い良く倒れた。

「ぎゃー、ごめんなさい!リトヴィノフだとは思わなくて…」

 目を涙で潤ませながら、マンサは倒れた俺の様子を見ようと膝を抱えて座り込んだ。

 永遠の十歳の少女はポーナの部屋で大半を過ごしている。幽霊こそ、このマンサだった。

 俺の体は極寒の冬のような気配を感じ、咄嗟に立ち上がった。

「ニロに見つかるとやばいんだ。暫らくここに居させてくれないか?」

 立ちか上がる瞬間、ふっとマンサの体に触れ、肩辺りが凍り付いたように悴んだ。

「私は別にいいけど…、ポーナが何て言うか…」

 マンサはそこで目に溜まった涙を拭った。

「大丈夫だって。ニロニトのことだ、逆に同情するさ」

 俺は部屋を見渡しながら言った。前よりもランプの数が幾らか増えている。趣味は相変わらず可愛らしい。

 ベッドの下か、机の下ぐらいしか隠れられそうな場所はない。

「ま、この部屋に誰も入ってこねぇわ」

 ベッドにそのまま横になり、俺はそこで長いため息をついた。

 天井に設置されているランプが船の動きに合わせてゆっくりと揺れているのが見られる。

「マンサさ…。この趣味どう思う?…顎が痛いな…」

 先程倒れた時に打ったらしい。顎を擦りながら俺はマンサに目を向けた。

「ポーナらしいとは思うけど…?」

 彼女はそう言った。

「嘘つけ」

 俺は呆れた声を上げて言う。

「まあ、ポーナの趣味なんてどうでもいいか」

 ベッドから身を起こし、一先ずその下に隠れることにした。

「腹減ったなぁ…。あと一日何してようか…」

 ベッドの下に隠れてから半刻ばかり過ぎても、ニロの気配が近づいてくる様子はない。

「見てこようか?」

 マンサは心配そうに尋ねた。

「ただの隠れんぼだからいいよ。それに相次等と遊んでたら限りがないし…」

 俺は膝を抱えながら縮こまり、マンサも同じように隣に座った。

 沈黙が訪れる。

「何かが起こるかもしれない…。沈黙がいつも私の不安を煽るの…」

 ガタンッ。

 マンサの呟きの後、音を立てて船体が大きく揺れた。

 俺はその反動で床に突っ伏す。

「私は予知してしまうの…。はっきりではないけれど、でも確かに何かを感じるの」

 彼女の体はよろめく事もなく、座ったままだった。


〔拓磨さんっ、急いで!〕

 廊下で勢い良く転んだ木庭は佳子の声に急かされて立ち上がった。

 この揺れは尋常な揺れではない。

 一刻も早く操縦室に向かわなければ、と彼はドラゴンと共に廊下を駆けた。

〈木庭!〉

 俺は廊下を走り去る木庭に声を掛けた。

〈何かわからないが、船が襲われてるみたいだ〉

 木庭は足を止めずに言う。

〔彼女は何処なの!?〕

 佳子にそう言われた時、再び激しく船体が揺れ、俺たちは半ば壁に打ち付けられるように倒れこんだ。

「こんなオンボロ、すぐに壊れちまうよっ」

俺は小声で悪態を付きながら、木庭と共に操縦室に向かうのを止め、図書室に向かった。


〔誰がこんなことを…〕

 マヌロは方眉を上げた。

『海に飛び込んで確かめたいが、冬の海に飛び込む程馬鹿じゃねぇしな』

 船の甲板にはポーナが立っていた。

 行っては駄目だとマヌロに言われたろうが、彼女は気にせず外の様子を見に来ていた。

 両肩に銀と青のドラゴンを乗せている。

 ちらりと黒く長い影が船の下を通るのが見えた。

〔何を言われても助けませんよ〕

 青いドラゴンは唸るように息を吹いた。

 そんなマヌロを知ってか知らずか、銀のドラゴンは陽気に鼻を鳴らす。

〔神様の仕業かしら?〕

『獲物にしてもいいなら、殺してもいいかもな』

 ポーナの目の色が猟をする鷲のように鋭いものになった。

〔一石二鳥ね!〕

 銀のドラゴンがそう言うと、マヌロはまた方眉を上げた。


 いない。

 何処にも銀のドラゴンがいない。

「何処行ったんだ?…もう…」

 気だけが焦る。床に散乱している本をいくつか払い除けてみるが、彼女の姿は見られなかった。

 それから俺は取り敢えず、手当たり次第に船内を探し回ることにした。


〔普通に考えてください、ポーナ〕

 マヌロらしい発言だ。

『馬鹿言ってんじゃねぇ。普通が何処までかなんて、お前に解るはずないんだよ』

 ポーナらしい発言だ。


(リトー!)

 不意に背後の声に呼び止められた。急いで振り返るとそこには…ニトがいた。

(ニロが化け物になっちゃったよぉっ!)

 意気なりニトが俺に泣き付いてきた。

彼は腰元に抱きつき、それから縮こまるように体を丸め、嗚咽を押さえている。

「何だって…?」

 全く意味が解らない。俺は情けない声を上げて、もう一度聞き返した。

(ニロが何だって?)


〔私に任せて!〕

 銀のドラゴンは威勢のいい鳴き声を上げた。

『おう、行け行け。今日の晩飯にしよう』

 ポーナは激しく揺れる船の上で、ふっとほくそ笑んでいる。

〔二人とも止めてください!〕

 彼らの会話に痺れを切らしたマヌロが怒鳴る。

 その途端、バンッ、と扉が開いた。

「そうはさせるかっ!」

『……っ!』

 ポーナが驚いた目を向けた。が、

『なんだ。船長かと思って焦ったぜ』

 それから彼女の顔から表情が消え、いつもの白けた目に戻る。

「そんな問題じゃねぇって!」

 俺は彼女の言葉に腹を立てて怒鳴った。

「それはニト曰く、ニロらしいんだ」

 慌て過ぎで話の途中で噛みそうになった。船が揺れるたび木が様々な音階の叫びを上げてしなる。

第四章

『リヴァイアサンだろ?ニロのはずねぇって』

 リヴァイアサンとは海を支配するといわれる巨大な蛇のことだ。

 勿論、人間界には存在しない海の魔物だった。

 しかし、ポーナも馬鹿ではない。

「でも、確かにニトはあれがニロだって言ったんだ。きっと呼び出したんだよ!」

 俺の言葉にマヌロが続く。

〔間違ったのではないですか?…魔界から仲間を呼び寄せる言葉を〕

『食われたか』

 彼女はケラケラと笑いながら、船の手摺りに寄り掛かった。

「何言ってんだよ!早く助けなきゃ」

 俺がそう言うと、

〔私に任せて!〕

 と、銀のドラゴンが挙手している。

「お前…」

 ああ、これは人を信じない呆れた表情だ。目が半分虚ろになっている感じ。

『マヌロ』

 ポーナはさっと手摺りによじ登り、ブーツの踵をコンコンと叩いた。

〔名前を呼ばれましても…。この件に関して、私は不要です〕

 何を言ってる、マヌロ。

『あっそう。じゃあ、私とこいつで探してくるさ』

 ポーナは銀のドラゴンを腕に抱き抱えた。

『ポーナ嬢。ちょっと無理なんじゃないっすか?』

 そうポーナに声をかけたのはヤグだ。一体、何時からいたのだろう。

『何だよ。文句あっか?』

 ポーナも不振に思ったのであろう、ヤグを白けた目で見下した。

 船が軋む音が激しいため聞き間違いかも知れないが、ポーナが舌打ちをした。

「旦那、魔界に帰す方法はないのか?」

 白髪が風に靡く。

「解らない…」

 俺はヤグを疑った。もし、魔界へ異形を帰す方法が解っていたとしても、易々とは彼に言えるはずがない。

「ニロは魔界を開いたんじゃよ」

 ドンテの声がした。彼の腕には銀のドラゴンがたたずんでいた。気配はなかった。

 ポーナでさえ、訝しげな表情をしている。

『ドンテ…』

「魔界を…?」

 俺は思いを巡らせた。前にドラゴンがほろめかしていた事がある。

 …俺たちの心に魔界が繋がっていると…。

「そして、わしは木庭が呼び出したヒルトープルなんじゃ。まあ、ニロのように遊び半分で呼び出したわけではないからの」

 それからドンテは雑用とポーナを船の中に戻らせ、二匹のドラゴンと俺だけを呼びだした。

 普段、異形を魔界から呼び出すには骨や陶器などの代償を用いる。

 しかし、若き木庭やニロは言葉のみで彼らを現代に呼び出したのだった。

「特に子供の心と強く繋がっているらしい」

 純粋であるほど繋がりが強くなるのだ、とドンテは言う。

「待って。…ってことは、ドンテは人間じゃない…」

 彼の顔にある傷に目を置きながら俺は言った。

「いかにも」

 静かに返答がなされた。

「そして、お前のドラゴンは、私が作ったものではない」

 老人の言葉に俺は息を潜めた。

〔……〕

 ドラゴンも息を潜めた。

「リトヴィノフはこのドラゴンを魔界から呼び出したんじゃよ。いいか、考えてみなさい。これは特別なことだ。神が門番との真の共存を許したことになるんじゃぞ」

 ドンテは妙に興奮していた。

〔それは…今話すべきことではないでしょう。早くニロを助けなければ…〕

 マヌロは彼の様子に驚きながら言った。

 長い尻尾が左右に揺れる。

 それから銀のドラゴンはなぜか、考え込むように押し黙った。

「でも、ニロは…。木庭と俺はよくて…、なぜニロは?」

 意味も為しに彼らを呼び出すのは、戦争をけしかけているに等しい。両者の理解なしでは共存など不可能だ、とドンテは言う。

「リヴァイアサンは無駄な殺戮を好まんが…」

 銀のドラゴンは、

〔ニロを殺すと、魔界との繋がりが少しでもなくなるって…ことよね?〕

 と、ポツリと呟く。

 それを聞いた俺は途端に駆け出し、極寒とも言える海へ飛び込んだ。

〔リトヴィノフ!〕

 背後でドラゴンの声が聞こえた。


〈ただ、呼び出したかった訳じゃなかったんだ〉

 木庭の言葉に佳子は頷く。船の中央部にある操縦室で舵を取りながら彼は言った。

 船の揺れは一時穏やかになり、妙な静寂が背筋を凍らせる。

〈彼らと共存したいと、願ってね。ドンテは本当にいい異形だと思う。私も彼のために犠牲を払うが…、彼は身を張って私を助けてくれるんだ…〉

 木庭は記憶の彼方にいるようだった。佳子は彼の肩の上に蹲り、時が過ぎるのを待っている。

〔それを欺いてはならない〕

 自分に課せられた使命的な約束。それは共存者を守護すること。

 それなしでは、両者に信頼がないことを佳子はよく解っていた。

 もし、それが別の形であってたとしても。

〈そう。私は両者の共存を望んでこの世に生まれてきたようなものだ。共存を果たすまで私は全てに置いて尽くさなければならない〉

 木庭は目を閉じた。

〈真の共存が許可されなければ、戦争になる…〉


 何か大きなものが海上に勢い良く浮上した。

〔ぶっはっ!苦しっ〕

 煉瓦色の鱗が見える。

 ガルシアだ。

〔ニロー!何処だよ~ぅ?〕

 半ば犬掻きをするように巨体をジタバタさせながら、ガルシアは唸った。

 それから大きく息を吸い込み、また海の中に潜水して行く。

〔あれ?〕

 煉瓦色のドラゴンは自分と同じように海底に向かって潜って行くものを見た。

 俺は水温の低さに体が凍り付くのを堪えながら、足で海水を必死で蹴っていた。

〔あんれ?〕

 ガルシアは首を傾げた。

 俺の後に、泡に塗れたドラゴンが続いている。

 泡が徐々に体から剥がれ、姿が顕になると銀の肌が見えた。大きな銀のドラゴンは素早く俺に追い付くと、俺を抱えて浮上しようと長い首を反らした。

〔ああ、早く助けなきゃ…〕

 ガルシアは尾を上手く使って、更に海底を目指した。


〔馬鹿な真似はよして!〕

 銀のドラゴンは空中で俺に怒鳴り、俺は腹を立てて彼女の腕の中で藻掻いた。

「なんでだよっ!?ニロが死んでもいいのかっ?」

 ドラゴンは翼を広げ、はばたいた。翼に付いた海水が雨のように弾け飛ぶ。

〔あなたが死んでしまうわ!ニロにはガルシアが付いてるから、それに縋りなさい。役目を奪い取っては駄目〕

 彼女の言葉が最もなのは解っていたが、俺はどうしようもなく悲鳴にも似た叫び声を上げた。

『リトヴィノフ!』

 ポーナの怒声にふと俺は我に返った。

「ったく、バカがいっぱいいる船だ。怪我ねーなら、中に入れよ」

 甲板に下ろされた途端に一気に寒さが押し寄せ、手先に電撃を受けたような感覚が走る。体は揺さ振るように大きく動き、皮膚は固まったように引きつった。

「なんとかなるさ」

 ポーナは俺の背中を蹴り飛ばして、船内へ俺を引きずり込んだ。(蹴られて言う台詞じゃないが、)なぜ、そんなに冷静でいられるのだろうか。

「皆、怒れてる…。仲間が死ぬんだぞ…」

 俺は後ろをさっと振り返り、彼女を睨み付けた。

「死ぬわけねーだろ。バカか、お前は」

 相変わらず白けた目だ。そう思っていると、彼女はまた俺を蹴り飛ばした。

『いつまでもウジウジ言ってっと、殺すからな』

 しょうがない、今はじっとしている他ないようだ。そこに白髪頭の男が駆け寄ってきた。

「旦那!まあまあ、なんて様だよ」

 ヤグが俺を見て言った。そして、俺もヤグを見上げた。彼の右頬が幾分腫れているような気がする。

「早く部屋に行こう!あ、旦那の部屋にはそんなずぶ濡れじゃあ駄目だな。よしっ、オレたちの部屋へ行こうじゃないか!」

 何をやらかしたのだろうか。

 口調が胡散臭い。

 ヤグは俺の両腕を掴み、ひょいと持ち上げて、雑用部屋に連れていった。

「ポーナに何かしたのか?」

 部屋に入るなり、俺はヤグに笑いながら言った。

「あ?…いや…。別に何も…」

 しわがれた声が裏返る。そして、ヤグは頭を掻きながら、短くため息を吐いた。

「冷やした方が良いんじゃないの?」

 俺はそう言って、濡れた体を震わせた。

「ポーナ嬢は恐いね~…」

 恐いに決まっているだろう。誰に殴られたと思ってるんだ。

 彼女がガーナの娘であることを忘れちゃいけない。

 俺はまた身を震わせた。


「旦那…。何故さ?」

 今思えば、大の大人が十も満たない子供相手に真面目な顔をして話すのは、実に滑稽な気がする。

「何故って、…何が?」

 俺は服に袖を通しながら尋ねた。

「いや、さ。ポーナ嬢は何であんなに乱暴なのかなってこと」

 いつものようにソファーを陣取りながら、ヤグは詰まらなさそうに口をへの字に曲げていた。

 ポーナの行為は腹立だしいものが多い。しかし、雑用係は痺れを切らすこともなく、まるで何かの機会を待つようにじっとしていた。

 木庭の言いつけを守っているような、気もした。

 部屋に入ったとき、モリーンがあまりの部屋の寒さに耐えきれず、ストーブに火を付けたところで、その隣で体を乾かしながら、俺は着替を早く済ましてしまおうと足をジタバタさせながら着替えていた。

「解ってるだろ。人が憎むような人に従って、ヤグは何が楽しかったんだよ」

 袖を通し終ったあとに、服が裏返っていることに気付き、慌てて着替直す。

「そう言われても…、オレは雇われスパイだからね。金さえあればよかったんだよ」

 欠伸混じりにヤグは言う。

「金はそんなに大事なものなのか?」

 俺の言葉がどう取られたかは解らないが、

「まあ、それなりにね」

 ヤグは目を閉じて、背中を丸めた。

「今の世の中、金がなけりゃ何にも出来ない。食うことも、遊ぶことも出来やしない」

第五章

 泡のようなもので包まれたニロは、中で真っ青な顔をしている。

〔ニロ!〕

 ガルシアは慌てて尾を海水に叩き付けた。

 近寄って見てみる。すると、ニロの胸辺りが微かに上下するのが見られた。息はあるようだ。

 恐る恐る彼を包む泡に触れてみる。

 ガルシアが触れた部分は初めは大きく波打っていたが、次第に小間かな振動ほどになり、やがて元に戻っていく。

 ドラゴンの感覚からするとその泡はかなりか弱く感じられた。これをこのまま抱いていくのは無理ではないか、とガルシアは考えた。

〔じゃあ、どうする?〕

〔この子はお前の何なのだ?〕

 ふと、背後で声がした。

〔共存者〕

 そう言って彼は体を旋回させた。そして、ガルシアは口からブクッと泡を吹いた。漆黒とも似た巨体は鯨のようだ。

 しかし、全長は鯨よりも遥かに大きい。リヴァイアサンは極寒の海底に佇んでいた。

〔神は共存を許さんぞ〕

 身体中、至る所に古傷が見られる。よく見ると深海に射す微かな光もないなか、彼の体は七色の鱗を持っていた。

 鋭い上顎に生えた二本の牙は噛みついた者の肉を引き裂く。

 ガルシアは彼を偶然に知っていた。ミシェルヴィエの戦いで彼は勇敢に戦い抜いた異形の一人であった。木庭の船にいるドラゴン以外にも戦いを生き抜いた者ならば、知っている者は多い。

〔僕は許す〕

 ガルシアの答えにリヴァイアサンは首を傾げた。

〔神は…〕

 リヴァイアサンが呟くと、

〔神はあなたを許したのよ。あなたを許して私達はダメなんて、神を冒涜する気?〕

 と、笑い声と共にやって来たのは銀のドラゴン。すらりとした長い首が海中で上下する。

〔異形同士、争う必要はないはずだ〕

 彼女を見てたリヴァイアサンは驚いた顔をして、たじろいだ。
 彼女は頬を上げて、大蛇を見つめたままだ。

〔異形同士だからこそ争うんだ〕

 そう言って、煉瓦色のドラゴンはニロの方へ向き直り、

〔ニロ!ニロ~?ガルシアだよ~〕

 と、為きりに呼び掛けた。

 海底の世界は仄暗い。死んだ珊瑚が列を成し、そこに息を潜めている深海生物は状況に応じて身を隠していた。

 暫しの沈黙の後、

〔解らん奴らだ。…私を魔界に帰してくれ〕

 長い体を揺すりながら彼は海上に向かった。

〔勘違いしないで。私は誰の見方でもないわ〕

 銀のドラゴンはガルシアを見た。

 仄暗い海底でも、光を失うことがない青い瞳。

〔何?〕

 ガルシアは首を傾げた。

〔名前〕

 彼女は言った。

〔へ…?〕

 ガルシアは更に首を傾げる。

〔男っぽいけど、いいと思うわ〕

 だと、さ。

〔ああ、どうも…。…へっ!?〕

 銀のドラゴンは両手でニロを包み込み、ゆっくりと海上へと向かって行った。


『海の底は楽しかったか?ニロ』

 ポーナは海から引き上がったばかりのニロをドラゴンから受け取った。

『馬鹿にしては上出来だ』

 どうやら海水を飲んではいないらしい。言葉の力を借りたのだろう。彼を覆っていたあの空気の膜で大方命は守られた。

 ポーナは青白い体をしたニロを抱き、急いで船内に入っていった。

 ふと気付くと、空から雪が舞っていた。

「君に助けてもらうなんてね」

 木庭は静かに微笑んだ。

〔これはリトヴィノフが望んだことよ。あなたにはまだ次があるわ〕

 銀のドラゴンは木庭の足元で空を見上げていた。

「寒くない?」

 黒髪にいくつか雪の結晶が乗っているのが見られた。

〔人間ほど雍じゃないわ〕

 彼女は笑いながら少しは寒いわ、と言った。

「リトヴィノフに心配掛けたと伝えてくれないか?」

 銀のドラゴンはもちろん、と言って微笑み、その場から姿を消した。

 空からこんこんと降り注ぐ雪は佳子が降らせたものだった。彼女の咆喉と共に新たな別世界が開かれ、リヴァイアサンは祖国に引き戻された。

〔見られてないといいんだけど〕

 白いドラゴンは木庭の元へと静かに舞い降りた。

〈どうかな?わからないね。何かの原因にならなきゃいいが…〉

 急に気温が下がったせいか、辺りがだんだん霧深くなってきたようだ。しかし、霧の向こうには確に陸が見えた。そして、刺刺した黒い影がはっきりと見られるまで、あまり時間は掛らなかった。


〈まあ、いい気分転換にもなるだろう。ポーナの御機嫌もすぐ直るさ〉

 黒髪についた雪を払い、少し湿った髪をかき上げながら、彼らは船内に入って行った。


「死んでないよな?」

 そう問掛けるとポーナは俺をきっ、と睨み付けた。俺はそれから何も言えず、仁王立ちのままその場に立ち尽くした。

 雑用部屋にはタオルと毛布が用意され、ストーブを囲むように船員たちはニロを見守った。

 相変わらず目は開かぬままだが、肌の色は大分もとに戻ってきている。水圧に負けたということはないだろう。ニロの言葉がどれだけ強いものであったかはよく解らないが、もし負けていたのなら、口から内蔵が飛び出ているのが普通だ。

〔今何考えてたの?〕

 銀のドラゴンがひょっこりと姿を表した。

「な…、何の話だか…」

 明らかに目が泳いだ。同時にポーナに笑われ、俺は顔を赤らめた。

〔木庭が心配掛けた、って〕

 ドラゴンの言葉に全くだ、と今だ目を開かぬニロを見つめた。

『起きたか?』

 すると靴音と共に木庭が現れた。まだだというようにポーナは首を振り、俺はやり場のない視線を銀のドラゴンに向けた。木庭はニロの傍らに座り込み、

(元気そうだな)

 と静かに言った。それから彼はポーナに代わってニロを抱き抱えた。

(起きなさい、ニロ。一体何時だと思ってるんだ?)

 その一言でニロは息を吸い込み、激しく咳き込んだ。その途端、辺りの緊迫した雰囲気はなくなり、船員たちの顔が一気に穏やかになった。

「さっき、何でポーナに殴られたの?」

 ニロの対応に船員が追われている間、俺はヤグにこっそりと尋ねた。

「ん?あぁ、まあ…」

 ヤグはそれで会話を断とうとしたが、俺は質問を変えて話した。

「ポーナが怖い?」

「そうかもしれない」

 彼はポーナの姿を目で追いながら言った。

 そして、

「スパイやめて雑用するのも悪くないなぁ、…なんて」

 と呟いた。

「ポーナがヤグを疑うから?」

 この船のことだ、そう思って尋ねると、やはりそうらしい。

「そこまで解ってて何故聞くんだよ、旦那ぁ」

 ヤグは白髪頭を掻いて唸った。

「仲間になれたらなぁ、と思ったから。ポーナにも言われたんだろ?」

 俺が彼と親しくしていたから、ポーナはヤグにそういった話を持ちかけたのだろう。

「旦那…」

 ヤグは頭を掻く手をふ、と止めた。

「もし…、裏切りがあったら?」

 彼ははっとして、俺を見た。

〔あってはいけない〕

 銀のドラゴンが横からぴしゃりと短く言って、俺の肩に舞い降りた。

「あぁ。じゃあ…解んないな…」

 苦笑を浮かべながらヤグはどうしたもんかね、とまた白髪頭を掻きむしった。

第六章

 ある西の国の町。

 大道芸人たちがあちらこちらで自分達の芸を披露しているのが見られる。商店街のテントが隣接する、その僅かな隙間に木箱を置き、その台に乗って逆立をしながら絵を描く。

 芸人たちの顔にはピエロとあまり変わりない化粧がされている。黄や赤いチークで塗られた鼻、頬。そして、墨で眉を太くなぞる。

 まあ、繋げちまってもかまわない。

 唇は口紅で大きく描かれ、笑顔や怒った顔の補佐をしていた。他にはバランスを使った芸や火を使った芸などが見られる。様々な芸を披露しているが、それを見たり、見なかったりする町の人々もそれに劣らず様々だ。

 また、商店街では野菜や肉を並べている。中には民芸品を並べる店もあるが、それは客用。特に興味がなければ買う必要なはい。


〈ここからは別行動になる。三ヶ月の間、しっかりと船のために働いてくれ〉

 木庭は船員を操縦室に集めて、組分けを発表した。

〈ポーナはリトヴィノフと。他の子供たちは私と一緒に、いいね?それからニロは船に残ること。ドンテとマンサが船に残るからね。ミハエルマルク、モリーンとヤグも一緒に残るように〉

 最後に船から出ることは許されないと忠告をして、木庭は船員を連れて外に出ていった。

 一気に静けさがやってきた。騒がしかった船内に残された者たちは退屈なのはお互い様、と言って各自の部屋に戻っていった。


『ま、今までとあまり差はないわね。それに、ここから逃げ出す元気もないわ』

 モリーンは手鏡を片手に髪を手櫛でとかしていた。

『これからは空腹を味わうこともないし』

 彼女の言葉に付け足すように自分の感想を言う、ミハエルマルク。

『…それってここに居座るってことか?』

 ヤグはソファーに横たわったまま尋ねた。見られる白髪頭は掻かれてボサボサと惨めだ。

 この船に来てから彼には頭を掻く癖が付いた。

『そういうことね。不自由しないわ、雇われスパイより。気が向いたら仕事をするけどね』

 モリーンは流し目でヤグを見た。

『ここを抜け出すつもりなのか?』

 ミハエルマルクは腹を鳴らす。

『いや…、そういう訳で言ったんじゃないんだ。ほら、まだ仕事が終ってないから、政府の回し者がオレらを殺しに来るかなって』

 ヤグの手が頭へ移動する。

『おいおい、まだチャンスはあるんだぜ?』

 異常に出た腹を掻きながら、太った男は信じられないというように首を振った。

『あなたって、大人のようで子供みたい。もしかして情が移っちゃたのかしら?…そりゃ、あの子とよく喋ってたものね』

 人を小馬鹿にするように笑う反面、驚いたようなモリーンの顔が覗かれた。

 ヤグは冷酷な暗殺者だ。

 今までも難無く仕事として処理していたものが、子供ごときに阻害されたのだ。

 俺に。

『なんとでも言え』

 彼は頭を掻きながら、悪態を付いた。というのも木庭一行が出ていく前、彼は木庭から一つの約束を聞いた。

―ドンテを必ず守ってくれ―

 と。木庭の持つヤグへの信頼は俺への信頼と同等である。

 その信頼を裏切ることがヤグへの最後の尋問だった。

(すっごーい!船がいっぱいだぁ)

 木庭の側にいた赤毛の少女が奇声にも似た声を上げて彼の黒いロングコートを引っ張った。

 港には様々な国から輸出入をする運搬船が集っていた。色も形も異なった船が隙間なく隣接し、港は活気に満ちている。

 さすが世界の工場と言われるわけだ。

 まぁ、これは本で読んだ知識だがな。

「今から働くの?」

 俺が振り返って木庭に尋ねると、

「あぁ、必ず小さな店や工場を訪ねなさい。解らないことがあればポーナに聞くこと。できるかい?」

 ペアだもんなぁ…。と、いっても別に嫌いなわけじゃない。

 …どうでもいいよな。お前らには関係ねぇや。

「できるだけ、そうするよ」

 俺はそう言って船の方を見た。夜には船に皆が戻る。だが、心配になった。

「任せた」

 小声で俺は祈り、港から町の方へと足を進めた。


「この国は特に貧富の差が激しいらしいよ」

 と、俺は本で学んだ知識をポーナの背に投げ掛けてみた。

 港から町の中心部に向かって歩いているが、俺にとっては当に驚きの連続だった。

 まずは建物。

 俺の住んでいた家の造りはなんだ。シンプル過ぎて話にならない。この国の建物には細かな彫刻がよく見られた。

「知ってる。そんなことより、どこで働くかだ」

 ポーナが承知済みだったことに少々気落ちした俺はポーナの隣に並んで歩いた。至る所から実に様々な匂いがする。

 食べ物の匂いであったり、香水の匂いだったりと俺の鼻は過敏に反応していた。

「小さい所ばかり訪ねろ、って木庭が言ってたけど…」

 俺が横からそう言うと、

「でっかいとこだと奴隷に一歩近付くぜ」

 と、ポーナは愛想よく答えた。何やら機嫌がいい。

 …気持ちが悪いなぁ。

「ポーナ。ヤグが何かした?」

 つい、と言うのもなんだが、俺はヤグの話を持ち出した。

「何の話だ」

 やけに彼女の声が低くなったような気がする。

「やっぱり、…何もないよ」

 こんな所に来てまで努声を浴びせられるのは願い下げ。俺はまた彼女の後ろの位置に付いた。

「私はお前に賭けたんだからな」

 ポーナの言葉に俺は戸惑った。彼女の暴言よりも悪態よりも、呟きの方が随分と堪える。

「あ、うん…。ありがとう」

 よくもまぁ、俺の口からあんな言葉が出たもんだ。

 あ、お前らはちゃんと言えよ。

 ポーナは俺の返事に、

「裏切られれば、お前を殺す」

 と短く答えた。

「解ってる」

 俺には言葉を選ぶ権利はない。

 全ては俺がヤグを裏切ることができなくなくなってしまったのが原因だ。

 それから会話が途絶え、暫くしてから俺は彼女に話しかけた。そして、徐々にいつもの調子が戻ってきた。

 それから俺たちは商店街の中を進んだ。しかし、ポーナは立ち止まらず、どうやらこの商店街を通り抜けるらしい。商店街の煩い雰囲気は嫌いではない。普通の人の暮らしが少しでも見られたことに感動を覚えるくらいだ。

 そんなこんなで商店街を抜けた。並んでいた店の最後には大道芸人たちが一輪車に乗りながら五色のボールをジャグリングしたりしている。子供心を擽られ、俺はその芸に見惚れていたが、ふと前方を見るとポーナが構わず先を行っていた。俺は悪態を付きながら彼女の後を追い掛けた。商店街の賑わいも遠ざかり、人通りも少なくなった辺りでポーナは建物の壁に寄り添って、道の先を指差した。

「惨めなお前がぴったりだ。あそこの店で林檎をかっさらってこい。そんで定員に叱られろ」

「なんで俺がっ!」

 何故か小声で驚く俺。

「馬鹿な奴だな。叱られた後は、金がねぇからここで働かせてくださいだろ」

 ポーナに殴られそうになって、俺は身を屈める。

「あ、そっか。ポーナは?」

 そう尋ねると、

「三日後に働きに行く」

 と返事が返ってきた。

「えっ!何で!?」

 そして、更に小さな声で俺は驚いた。

「おい、無駄口叩いてんじゃねぇ。断られたら、すぐに他の店探さなきゃなんねぇ」

 そう言ってポーナは俺を道の真ん中に蹴り飛ばした。そして、俺は水溜まりの中にまともに突っ伏した。

 惨めなふりをする必要もない。

 振り返り、ポーナを睨み付けることもせず、俺はその店に向かってとぼとぼと歩き出した。時たま通りがかる人々に不潔だと気色悪がられた。

 はいはい、俺はただのホームレスですよ。

(林檎はいらんかね~。甘い林檎で作ったタルトもあるよ~)

 威勢のいい声がだんだん近付いてくる。

 甘ったるい香りが鼻に付くほど香っている。すぐに店の前まで来た。真っ赤な林檎がところ狭しと並び、店のショーウィンドーにはタルトやケーキなどが値札のプレートと一緒に並べられていた。また、その店の奥では実際にケーキが焼かれ、なんとも芳ばしい香りが辺りに広がっている。俺は早速、赤い林檎の側に寄り添い、暫く眺めることにした。

 空腹ではあるが、まだ理性を保っていられる範囲だ。定員は背も高く、体もがっしりとしている。そして、彼が俺に目を向けたと同時に林檎を素早く取り去った。

 少し速過ぎたかもしれない。

(何だい。ずぶ濡れじゃねえかい何か欲しいもんでもあんのか?)

 気付いていないらしい。

 店員は優しい笑顔を俺に向けているだけだ。俺は林檎を持っている方の手を背中に回した。

 その途端、その林檎が手から取り拐われた。

(おっさん。これくれ)

 俺の隣で定員に林檎を差し出すピエロがいた。少年らしきピエロは店員に金を渡し、俺の手を握って走った。

 すると、急に立ち止まり、

(ジョエル)

と一言言った。

「え…?」

 俺は思わず北の国の言葉で返してしまった。

(僕の名前はジョエル)

 そうピエロは言って、俺に林檎を投げ渡した。

(俺は…リトヴィノフ)

 それはそうと、ジョエルは直視出来るような顔をしていない。

 赤いのは鼻だけで、他はパンダ同然の白黒だった。化粧も酷い。

(聞かない名前だなぁ。まぁ、いいや。二度と盗みはすんなよ、じゃあな)

 年は俺と変わりない。手を振りながら走り去って行く。

(待って!)

 俺がそう呼び掛けると、遠くの方から返事が返って来た。

(俺、忙しいんだ。また会った時に金返して)

 そう言い残し、ジョエルは商店街に向かって道を走っていった。

『なんだありゃ?お節介な奴だなぁ』

 ポーナが俺の背後に現れ、俺の手から林檎を奪って素手で半分に割った。その半分を俺に渡して、ポーナは林檎にかじりつく。

『他の店行く?』

 そう彼女に尋ねると、

「さっきと同じ手で、あそこのパン屋にしようぜ」

 林檎屋からそれほど離れていないパン屋を指差した。

 俺は同じ手なのが気に入らなかった。

第七章

 なんとかパン屋を押さえた。

(じゃあ、今から店番頼んでいいか?売れた分だけ、給料に入れてやる)

 なんともやる気のでる条件だ。

(日払いでよろしくな、おっさん)

 調子に乗って、ポーナが言った。

(分かってるよ。帰ってきたらすぐにやる)

 店長がそう言うと俺は元気よく、

(いってらっしゃい!)

 と、手を振った。このパン屋は店長とその妻だけで経営している。

 林檎屋と似た造りで、店の奥に厨房があった。店長は絵に描いた様な白髪混じりの髭を生やし、少々頑固そうな顔付きをしている。が、そんな顔に似合わないくらい優しい。

 ん?甘いのか…。

「どうする?客、呼ばなきゃ」

 店長がさっさとどこかに行ったあと、

「こんなところで売ってんのもなんだから、パン持って商店街で売るか?」

 店のレジ番をしながら、ポーナは言った。

 パン屋はプレートを持って並べてあるパンを取っていくセルフサービス形式だ。

「それもいいけど…。この店で売れないかな?」

 俺はプレートを布巾で拭きながら、唸った。

「じゃあ、お前は商店街に宣伝しに行け」

 ポーナはパンを取る道具の鋏で俺を指し、それを開閉させる。

「また俺…?」

 俺は聞いた事もない絶句の声をあげた。

 店には時たま客が入るが、なかなか商売繁盛とまでは言うことが出来ない。

「お前が計算出来るのなら、話は別だがな」

 ポーナは鼻で短く笑った。

 彼女の人を見下す態度が今更ながらに腹が立つ。


(おっさんのパンはどうですかー!試食もありますよー!)「…って、見向きもしねぇ」

 態々、紅屋板からこしらえた看板を背に俺は商店街の付近でパンの試食を町人に進めていた。しかし、客は商店街の方を向いたままだ。

 俺は両手にパンの入ったバスケットを持ち、「私を食べて!!」と書かれた看板を背に途方に暮れていた。

「帰ろっかな…。ポーナに交代してもら…」

 大声を張り上げるのにも飽きて、俺は店に帰ろうと振り返った。

「パン食べさせてくれよ」

 と、ピエロが言った。

「ジョエル!」

 俺は驚いて、バスケットごとパンを落としそうになった。

「光栄だなぁ。名前を覚えてくれるなんて!」

 忘れられない名前になりそうだ、と俺は顔をしかめた。

「パンの試食やってんだろ?食べていい?」

 ジョエルは指で摘む動作をしながら、にっこりと微笑んだ。

 彼とは年もかわらないだろう。それに背丈も全くと言っていいほどかわらない。

「…あっ、…どうぞ」

何か、変な感じがする。

「食べ物ってのは演技で客を呼ぶんだ」

と、ジョエルは言って、パンを俺から受取り、口にほうばった。

 ジョエルはうーん、と唸る。

「味まで?」

 俺は彼のそぶりを見て言う。

「まあ、ここの連中は味覚がちょっとな」

 彼は美味しいよ、と言って笑った。

 彼の発言は俺にいくらかヒントを与えたらしい。

「北の人…?」

 俺がそう言うと、ジョエルは満面の笑みを浮かべた。

「ビンゴッ!…って、北の言葉で話してるもんな…」

 彼は更にパンを口にほうばった。そして、通り過ぎていく人々の中にこちらをうかがう視線もでてきた。

「ここで何してんの?」

 町人の視線を楽しみながら、俺は彼に話しかけた。

「世界を回って、芸人やってるのさ。そう言うお前は?」

 口の中をパンでいっぱいにしながら、彼は話した。

「食糧を買う金のために働いてる。ジョエルと変わらないよ」

 自分の言葉に過去の出来事が自然と蘇ってくる。

「リ…、リベノ…」

 ジョエルが俺の方を向いて、必死に何か言っている。

「何?」

 まあ、大体言いたいことは分かっていたが、そう尋ねると、

「お前…?」

 と、予想通りの答えが彼の口からでてきた。

「俺はリトヴィノフ」

 俺は方眉をあげて、不機嫌そうにそう言った。


「何連れてきたんだ?」

 ポーナは紙袋に客が選んだパンを詰めながら、店の出入り口に目をやった。

「…、君の姉さん?」

 ジョエルは訝しげに尋ねた。

「まあ、そんなとこだ」

 彼は俺の方を見て尋ねたわけだが、ポーナが即答する。

 それから彼女は毎度ありっ、と客を店の外まで送って、

「で、何してんだよ」

 と、俺達に白けた目を向けた。

「パンがなくなったから、帰ってきたんだ」

 なぜかジョエルが答える。

「ちゃんと客呼んだんだろうな?」

 ポーナの質問は俺に回ってくる。

「ジョエルが客を呼んでくれたから、パンがなくなったんだよ」

 俺の返答にふーん、と彼女は灰色の目を向けた。シルクハットを被り、黒いステッキを持った客が店に近付いてきた。

 ポーナはレジ打ちに戻り、俺は使用済みのトレイを洗いにかかる。

 ピエロは店の前で先程俺が下げていた看板を下げて立っていた。

 ポーナは変な奴だ、とブツクサ言いながらもジョエルを悪く見ていないらしい。

 それから、辺りが暗くなり始めた頃、ポーナは知らない間に姿を消していた。


(そうかい、姉さんは大変なんだなぁ)

 店長は目頭を真っ赤にして言った。

(だからこれから三日間は俺だけなんだ)

 俺は惨めそうに眉を上げた。ポーナが子持であると店長に告げたところ、店長は唸って同情し、九人の子守りをしに帰ったと告げると涙を流して、世の中どうなったんだと溜め息をついた。

(まあ、初日はこのぐらいにして。明るい内に家に帰んな)

 店長は俺に二人分の給料を袋に入れて渡してくれた。

 ジョエルの働きは数日後に効果が現れるだろう。そう願って、俺は店を出た。ジョエルとは店の前で別れ、時々手伝いに行くよと言ってくれた。

第八章

「お帰りなさいぃぃ!ヒイィ!」

 船の入り口でマンサが出迎えた。俺の帰宅はそれで船員に伝わった。

「ただいま」

 マンサは泣き叫びながらにっこりと微笑んだ。

 器用だなぁ、と思いながら俺は、

「ポーナは?」

 と尋ねた。

「もう帰ってるわ。皆の夕食作ってるわよ」

 少し鼻をすすりながら、彼女は言った。確にいい香りが船内にある。

〔あら?早いわね〕

 マンサの向こう側にドラゴンが見えた。

「今日は明るい内に帰れだってさ。あ、金は貰って来たから大丈夫」

 と、俺は金の入った袋を差し出した。

〔木庭一行がまだだから、お金は渡せそうにないわ〕

 どのぐらい稼いだのかしらね、と銀のドラゴンが飛んできた。

「まだ見てないからわかんないけど、パン屋の店長が優しい人なんだ」

 彼女を肩に乗せ、俺は自分の部屋に向かった。

「旦那ぁ!」

 とその時、俺の目の前に血まみれのヤグが走りこんできた。

「どうしたんだよ、ヤグ!?」

 俺は慌てて彼に肩を貸した。

「ポーナ嬢がオレを刺した!」

 激しい痛みの最中、彼は息を荒だてて言う。

〔この人、ポーナに喧嘩を売ったの〕

 銀のドラゴンはにんまりと微笑みながら、翼をはためかす。

「ヤグのせいなんじゃないの…?」

 この前、ポーナに殴られたばかりの彼にはその解釈が適切に感じられた。

 それから、ヤグの背後に回り、見てみると、パックリと割れたように傷が開いていた。

〔私、木庭が帰るまで部屋で待ってるわ。こんな分からず屋と一緒にいたくないもの〕

 銀のドラゴンは俺の肩から飛び去り、先に図書室の中に入っていった。

 酷い嫌われようだ。

「あ~ぁ。そんなに深くないし、急所も外れてるから大丈夫だって」

 そう俺が言い終えたとき、自分の服が一着しかないことに気が付いた。

 汚れては明日働くことが出来ない。

「そんなぁ、酷いですって!せめて、包帯だけでも!」

 ヤグが泣きそうな顔をして、俺にすり寄って来ようとしてきた。

「わかつた!だから服に触らないで、一先ず部屋に戻ってて」

 仕方ない、と俺は溜め息をつき、ドンテから包帯とガーゼを借りて雑用部屋に急いで走った。


『っだぁっ!』

 俺はヤグの背の血をガーゼで拭き取ってから、止血するほど強く包帯でぐるぐる巻にした。

「男だろ?女々しいぞ、ヤグ」

 まさか年下に言われるとはね、と苦笑いを浮かべてヤグは傷の痛さに顔を歪めた。

「ポーナ嬢は恐ろしいな、殺人鬼のようで…」

 彼は困ったような声で言った。

「どっちがだよ」

 有能なスパイがレジスタンスに潜り込むなんて。

 俺は笑った。

「話変えるけど、殺し屋なのになぜ俺を親うの?…俺の勘違い?」

 ヤグは俺のことを旦那と呼ぶ。子ども相手にそんな言葉を投げ掛けられ、俺はそう呼ばれることを疑問に思っていた。

「何でだろうな。なぁ、旦那?」

 しわがれた声の裏に笑みが見え隠れする。俺の目には彼の白髪頭がうつっている。

「何でだと思う?」

 彼は振り向き、俺の顔を見上げた。

「わからないから聞いたんじゃないか」

 俺は少し声を荒だてた。

「そうか」

 そこで彼は姿勢を元に戻し、一度頷いて黙りこんだ。

「で?」

 俺は沈黙を避けるようにヤグに話しかけた。

 いや、避けたかったんだろうな。

「で?、何て言うもんじゃねぇ」

 機嫌を損ねてしまったのか、彼は右手で頭を掻いた。

「…旦那が弟みたいでね。不思議とそう思った。オレにも身内が出来たんだ、ってね」

 彼の話は俺を喜ばせるものだった。しかし、

「オレが仕事しようとすると、旦那がやって来て邪魔するんだ。なにかと構ってきて、オレの計画を台無しに」

 と、続く話だった。

 ヤグは俺よりも年が十も違い、その上殺し屋である。俺はそれを何とかして忘れたかった。

 そんなことを考えていると、頭が回らなくなる。

「ごめん…。ってなんで俺が謝るんだ」

 ヤグ、お前はどんな人間なのか分からない。

「でもなぁ、旦那。疑われるのは好きじゃないんだ。今までになかった経験だから」

 ヤグのその気持はよく解った。

 あぁ、疑われるのは俺も好きじゃない。

 ここの船員には絶対に疑われたくないと、そういう思いをこの船に乗り込んだときから感じていた。

「不安?」

 俺はヤグの隣に座り込んだ。

「つらい…。だから、オレを殺してほしい」

 俺は彼の言葉に不満を感じた。

 仲間なんだろう?

「自分で死んで」

 俺は些か吐き捨てるように言った。

「なぜさ?旦那にとっては何も不利にならないじゃないか」

 ヤグは俺の巻いた包帯の端を他の適当なところと結び合わせて、包帯がほどけないように縛った。

「殺したくない。それ以前にヤグを疑いたくないよ」

 そんな彼を横目で見ながら、俺は過去の記憶をむさぼった。

「俺の居場所はここしかないんだ。強制されてるわけじゃない」

「オレが旦那を殺せばどうなる?」

 ヤグは頭を掻きながら、溜め息をつく。

「ポーナがお前を殺すよ。それに、死んでも俺はヤグを許さない」

 当たり前じゃないか、とでも言うように俺は少しあざけた笑い浮かべた。

【ヴェルチ】

 そして、俺は言葉を口にした。

 その途端、空気が破裂し、空圧が辺りに弾け飛ぶ。

「俺はヤグと話してるんだ」

 ミハエルマルクとモリーンの手から銃弾がガチャリと音をたてて落下した。

 俺は言い知れぬ緊張感と絶望にうつ伏した。

「誰にも言わないさ。こんな馬鹿げた話…」

 そのとき、部屋の扉が開かれた。

第九章

『飯の時間だ』

 そう告げたのはポーナだった。

 そこにいた人々は皆、しまったというように黙り込む。

『ドラゴンは?』

 俺は追い出すように彼女の方に歩み寄った。

「食卓にいる。早く行け」

 そんな俺の行動が受け入れられるはずはなかった。

 すぐにポーナは雑用部屋から俺を閉め出した。俺は一人、広い廊下に放り出される。肌寒い廊下に風が吹いた。


「よお。お前を切り刻んで、海に投げ捨ててもいいんだぜ。なんなら首だけ残しておこうか?」

 俺が出て行った直後、ポーナはヤグにゆっくりと歩みより、短剣を彼の首筋に突き付けた。

 ミハエルマルクはそれを見て、慌てて言う。

「許せ、ただ遊んでただけだよ」

 モリーンも早口で、

「何、子供ごときに怯んでるのよ!」

 と、ミハエルマルクを怒鳴りつける。

「私はそんな言葉を聞きに、わざわざここにきたんじゃねぇんだ」

 単調な彼女の言葉にモリーンの気配も怯んだ。ポーナの殺気は廊下にまで伝わってくる。しかし、扉越しに声が聞こえるは、篭っていて良く聞こえない。

 すると、銀のドラゴンが目の前に現れた。

〔行きましょ〕


「殺せよ」

 ヤグは静かに溜め息をつく。

 彼の目はポーナに似過ぎていた。いや、それ以上だった。

「それは私が決めることだろ。勘違いして、出しゃばってんじゃねぇよ」

 ポーナはヤグから目を離し、辺りを見回した。


〔ヤグがいなくなっても、リトヴィノフがここを出ていく必要はないわ〕

 食卓の上にドラゴンをおき、俺は椅子に座りながら、向き合う格好で銀のドラゴンと話した。

「うん」

 俺は短く返事をするだけで、言葉を忘れてしまったかのように口数が少なかった。

〔あなたの望む通りにすればいいのよ〕

 彼女は優しく俺に語りかけるが、やはり思い付く言葉は少なかった。

「何のための出来事なのかな?」

 何か全てがはっきりとしていないように思えた。

〔あなたは十分理解しているから、心配しないで。でも、助けを求めた相手が敵である限り、ポーナの行動に目を伏せなければならない〕

「それは違う!」

 俺は彼女の言葉を聞いて机を叩き、勢いよく席から立ち上がった。

〔そうかしら。ヤグが彼を殺すことで戦いが始まってしまう可能性は捨てられないわ)

 ドラゴンは戦いが始まってもいいの、と俺に尋ねる。それから、俺は力なく椅子に座った。

「ごめん…。俺、やっぱりわかんないや…。大きくなろうとすると、その思いとは真逆のものが生まれるんだ」

 俺は自分を殴りつけてやりたいような衝動に狩られた。

〔そうね。貴方にはそんな思いをさせたくないのに…〕

 出来事とは、欲から生まれるものなのだろうか。

 人や動物は何気無しに生きているのが大半で、何のために生きているかなどは、滅多にみられない思考である。

 一時、自分の死後はどうなるのだろう、と心なしか不安に感じたことがあるだろ。それと同じで、死ぬまでの期間をどう過ごすか、と考えることで欲が生まれるのかも。俺はそう思ってる。

「お前になってみたいよ…」

 俺は彼女に微笑みかけた。

〔私に?〕

 銀のドラゴンは驚いたように言う。そして、

〔私の視野は狭いわよ〕

と小さく瞬きをした。

 ドラゴンとの会話はいくらか俺を安心させた。

 丁度その時、わいわいガヤガやと子供たちの声が聞こえてきた。

 俺は負けず嫌いだったおかげで(ポーナに対して)、何とか他国語を話せるが、彼等はそれぞれの母国語で木庭に話しかけている。

 まあ、一人一人に対して正確に返答する木庭に感心したが…。

〈お帰り〉

 俺は落書きだらけの扉を開き、木庭の姿を見て言った。

「早いな、仕事はどうだった?」

 子供達にもみくちゃにされながら、笑顔で俺に返事をかえした。

「楽しかったよ!はい、お金!」

 俺は紙袋を木庭に渡し、

「ポーナのも一緒に入ってる」

 と、付け足した。

「リトヴィノフ」

 赤毛の少女が木庭の背に飛び乗る。その子をあやしながら木庭は言う。

「ポーナを…」

「解ってる…」

 俺が彼の言葉を制したとき、木庭の背後に白髪頭がちらりと見えた。

「…旦那」

 ヤグは申し訳なさそうに頭を掻いた。

 木庭は子供達を席につかせるためにその場を退いた。

「…ヤグ」

 驚きのあまり、声が裏返る。

 俺はポーナにヤグが殺されたものだと思っ
ていた。

そのヤグを押し出し、食卓に入ってきたのは黒髪の少女だ。

『お前ら、飯の時間だ。席につけ』

 騒々しかった雰囲気は彼女の一声で静まった。

 いつものバイキング形式であったため、夕食が残ることはなかった。しかし、ポーナは一口食べて、あとは何も口にしなかった。そして雑用係の内、二人は姿を消し、二度と俺の目の前に現れることはなかった。

 その夜、銀のドラゴンはヤグを呼び出した。


〔リトヴィノフは特別なのよ〕

 船の甲板からイギリスの町の光を見つめながら、ドラゴンは話し始めた。

「お前にとってだろう?」

 ヤグは大きく延びをして、溜め息をつく。伸びをした時にちらりと背中が見えた。

 ポーナにつけられた背の傷はピンのお陰で跡形もなく消えている。

〔それは当然〕

 彼女はぴしゃりと言った。それから、

〔私は彼を神の子だと思ってるの…〕

 と少しうつ向いて目を閉じた。

「神の子…ねぇ」

 ヤグは興味無さげに船の甲板を歩き回った。

〔次の世を納めるのは彼。今の神は生き過ぎた〕

 目を閉じたまま、ドラゴンは言った。

〔政府がそれに気付くのは時間の問題よ〕

 そう彼女が言い終えたとき、ヤグが訝しげに彼女に訪ねた。

「なぜ?」

〔政府にはアンジェラがいるもの〕

 一端はそう答えたがすぐに目を開け、

〔あなたは本当に政府と繋がってないのよね?〕

 と問い返した。

「ないよ。…旦那」

 バレた。

 彼等の後をこっそりと着けていたわけだが、ドラゴンもヤグも俺の存在に気付いていたのだろう。

「ヤグ…」

 俺はドラゴンの側に歩み寄った。

〔リトヴィノフだけじゃない。ポーナもあなたを信じたのよ〕

 彼女は翼を広げながら深く息を吸った。

「そうだな。生かされちまったよ」

 ヤグは頭を掻いた。空には星が瞬き、波の音は心地良い。時折、カモメの澄んだ鳴き声が遠くの方で聞こえた。

〔あなたは出会い初めのリトヴィノフとよく似てる〕

 青い瞳がこちらに向けられる。

〔信じようとするのだけれど、過去の出来事に縛られるのよ、ね。一体、あなたの過去に何があったの?〕

そうドラゴンが尋ねると、ヤグはゆっくりと話し出した。


『裏切ッちゃっタ…』

 歯がゆくなるような金属が擦れる音がする。

『マンサ…?』

 ガーナは自分の膝に置かれた彼女の頭を優しく撫でた。

『可愛ソうな、私タチ…。誰も愛シてハくれないのネ』

 マンサの声は震えていた。

『そうか…。ヤグに裏切られてしまったか…』

 ガーナはふうっと溜め息を付き、側にあった葡萄酒入りの杯を手に取った。

『もット早く二予言が出来れバヨカったの二…。ごめんナサい…』

 マンサの言葉を聞き、彼は傾けかけた杯を止めた。

『誤ることなどないさ。私は何も悲しんではいないよ』

 杯を元に戻し、ガーナは幼子をあやすような微笑みを彼女に向けた。

『私、ガーナ様ノためなら、何デモすルわ…。だッて、貴方ダケが私を愛シ、私の心を満たしてクレるンだもノ』

 そして、ガーナは微笑みながら、またマンサの頭を優しく撫でた。

『今度はリトヴィノフに会いに行こうか』

 その声を聞いて、側近が彼の元に駆け寄り、船を出しますか、と尋ねた。

『楽しミだわ、…彼ハネ…』

 マンサの感嘆の声を聞きながら、ガーナは五隻連れていこうと話した。


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